群豎聚観(群豎聚まり観る)(「觚賸」)
イマジン。想像してみよう。

貧富の差がなくなることは無いのであろうか。
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清の時代、広州の市場に一人の物乞い(「丐」(がい))がおったんじゃ。
年二十余、貌極尫羸、而腹大如瓠、毎晨出、則行且呼。
年二十余り、貌極めて尫羸(おうるい)、しかるに腹は大いなること瓠(こ)の如く、毎晨出でて、行きかつ呼ばわる。
年のころは二十歳過ぎの若者なのだが、その姿はたいへん背中が曲がり、それなのにおなかはひょうたんのようにまるまると大きい。毎朝市場に出てきて、歩きながら呼ばわるのである。
その呼び声に曰く、
収買瓦石磁器。
瓦石磁器を収買せん。
「かわら・いし・磁器を買い取るよー」
と。
群豎聞声即走随其後。
群豎声を聞けば即ち走りてその後ろに随う。
子どもたちはその声を聞いて即座に駆け集まってきて、彼の後ろをついて回るのであった。
好事者与以銀銭少許、拾塊石片瓦命之食、即納口咀嚼、無異藕蔗。東莞紅米石、其所最甘也。
好事者、銀銭少し許(ばか)りを以て与え、塊石・片瓦を拾いてこれを食うを命ずるに、即ち口に納れて咀嚼す。藕蔗と異なる無し。東莞の紅米石、その最も甘いしとするところなり。
物好きな人がいくばくかの銀貨や銅銭を与えて、石のかたまりや瓦のかけらなどを拾って食うように命じると、そいつは即座に口にいれて食べ始める。まるでレンコンやさとうきびと変わるところが無い。東莞地方の赤コメ石という石が、いちばんの好物である。
「瓦・石、磁器を買い取るよー」というのは掛け声だけで、実際は買い取るのではなくてお金をもらって食うのです。
唯与以磁器、必索重賞而後食、瞠目伸頸、微有喉咽難下之状。
ただ、与うるに磁器を以てするのみ、必ず重賞を索めて後食らい、目を瞠り頸を伸ばして、かすかに喉咽の下し難きの状有り。
ただ、磁器を与えて食わせようとした時だけは、必ず大きなほうびを求めてから食うのだが、その時は目をみはり首を伸ばして、少々咽喉を通して嚥下しづらいという様子を見せるのだった。
このコジキは、
暮棲三界神廟、天暑必浴於廟前之江、如瓠之腹、浮水不溺、群豎噪而聚観焉。
暮れに三界神廟に棲み、天暑には必ず廟前の江に浴す。瓠の如きの腹、水に浮かびて溺れず、群豎噪ぎて聚まり観る。
夕方になると三界神さまのお堂に住み込んでいた。暑い日には、お堂の前の川で泳いでいるのであったが、ひょうたんのような腹が水に浮かんで、いつまでも沈むことがない。子どもたちは大騒ぎしながら、集まって来て、見物するのであった。
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清・鈕琇「觚賸」正編巻七より。石や土がむしゃむしゃ食えれば戦争なんか起こりません。争いの無い理想的世界になる・・・、いやそうなっても、より大きい石、より柔らかな土を求めて、人間は終わる事無き争いを繰り広げるのかも知れません。
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