可免怨尤(怨尤を免かるべし)(「荊園小語」)
うまく生きていきたいものです。できればもう少し。

毎食このパンぐらいに止めておければ今頃ピーターパンのように身軽だったかも。止めてくれなかった他人のせいだ。
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常有小不快事、是好消息。
常に小不快事有るは、これ好消息なり。
いつもちょっとしたイヤなことがあるなら、それはいい知らせである。
若事事趁心、即有大不趁心者在其後。
もし事事に心に趁(かな)えば、即ち大いに心に趁わざることその後に在り。
もし何事も思い通りになりはじめたら、すぐ後にたいへん思いに違うことが起こるだろう。
知此理、可免怨尤。
この理を知れば、怨尤(えんゆう)を免かるべし。
この定理を知っていれば、①ひとの怨みや咎めを受けることがなくなる。②ひとを怨んだり咎めたりすることがなくなる。
みなさんは①②どちらがいいですか。
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清・申涵光「荊園小語」より(合山究「清代清言集」(講談社1987)所収)。合山先生の訳では②になってますね。①も捨てがたい。いずれにしてもいい言葉だなあ。
こんなのもありました。(傅山「霜紅龕集」巻三八)
得少為足、於学問則小器、於飲食為上智。
少を得て足ると爲すは、学問においてはすなわち小器なるも、飲食においては上智なり。
少しばかりで満足してしまうのは、学問においてはちっぽけな器にしかならない。だが、飲み食いにおいてはすごい賢者である。
むむむ、なんと。少しばかりで満足していればよかったのに、子どものころからあくなき追及をしてしまっていたのです。もちろん学問の方ではなく、飲食の方に。ああこの言葉を子どものころに知っていたら、こんな体形・健康状態(や学識レベル)にはなってなかったであろう。当時まだ子どもですから、自分のせいではなく誰かのせいだと思います。ようし、他人を怨み咎めるぞー。
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