6月9日 おなかかちかちに脂肪で固くなってきた

相識之晩(相識ることの晩き)(「袁中郎文鈔」)

こういうのも読んでみましょう。・・・と読んでたら、うわ、またこんな「どえらい」時間に。

糖質依存症だと思うので、これを克服するためにタンパク質や脂肪分を摂ろうかなあ。自傷行為ではという懸念もある。

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明の萬暦年間(1573~1619)のことですが、

余一夕坐陶太史楼、随意抽架上書、得闕編詩一秩。

悪楮毛書、烟煤敗黒、微有字形。稍就灯間読之、読未数首、不覚驚躍。

シェーーーーーーーーー!!!!!!

というような感じだったんです。

そこで、ここを紹介してくれて、同じように書物を漁っていた周望に呼びかけた。

闕編何人作者、今邪古邪。周望曰、此余郷徐文長先生書也。

それから

両人躍起灯影下読復叫、叫復読。僮僕睡者皆驚起。

と、翌朝文句を言われました。

蓋不佞生三十年、而始知海内有文長先生。

噫、是何相識之晩也。因以所聞於越人士者、略為次第、為徐文長伝。

―――徐渭、字・文長、会稽・山陰の諸生なり・・・。

天下に名だたる文章を書きながら、「諸生」とありますように、科挙試験を受けずに高官の幕僚として出仕し、後、容れられず、発狂して奥さんを殺したり、自傷行為を繰り返したりして、ついに「憤死」(激しく怒りながら死んだ)という伝記は、ファンも多いのですが、普通のひとは読んでてイヤになると思うので止めときます。

著者は「何ぞ相識ることの晩き」と嘆いていますが、死んでから知ったぐらいでちょうどよかったのでは。

最後に、著者曰く、

先生数奇不已、遂為狂疾。狂疾不已、遂為囹圄。古今文人牢騒困苦、未有若先生者也。

しかし、先生の戦略や軍事に関する能力は、当時の為政者に中には認める人もあった。畏れ多くも皇帝にも報告されていたという。ただ、あまりに行動が異常で、許容されなかっただけなのである。

何よりも文学の面で時代に先駆けた。

先生詩文崛起、一掃近代蕪穢之習、百世而下、自有定論。胡為不遇哉。

友人の梅客生が、手紙を寄こした。その中に言う(以下「奇」を「どえらい」と訳しています。もう少し含意のあるコトバですが)、

文長吾老友、病奇於人、人奇於詩。

と。

余謂文長無之而不奇者也。無之而不奇、斯無之而不奇也。悲夫。

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明・袁宏道「徐文長伝」(「袁中郎文鈔」所収)より。文長先生の行動がちょっと「どえらい」のと、明日はまた平日なので、途中は自己規制です。手を抜いたのではないんです。

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