6月3日 土が食べられれば働く必要は格段に減る

無首無尾(首無く尾無し)(「荘子」)

肝冷斎の「説明」がまさに「首無く尾無し」の感じでした。プレゼンというような高級なものはしたことがありません。最近は人に「説明」することさえないのでみみず系人間としては楽ちんである。

みんな土食って生きるでみみずん。かっこいい服も清潔な家も、生命の本質には関係ないでずんずん。

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宋の黄庭堅が李白の詩のことを評して、こう言っている。

如黄帝張楽于洞庭之野、無首無尾、不主故常。

「ちょっと待ってくださいよ。宋代の黄庭堅先生が、紀元前五千年ぐらいの黄帝の時代の音楽のことを何故知っているのですか」
「それはちゃんと本に書いてあるからじゃよ。ほれ、この本のここを読んでみたまえ」

―――北門成が黄帝に質問した。

帝張咸池之楽于洞庭之野、吾始聞之懼、復聞之怠、卒聞之而惑。蕩蕩黙黙、乃不自得。

黄帝は答えた。

女殆其然哉。

「そ、そうなんですか」

吾奏之以人、征之以天、行之以五徳、応之以自然。然後調理四時、太和万物。四時迭起、万物循生。

一盛一衰、文武綸経、一清一濁、陰陽調和、流光其声。

蛍蟲始作、吾驚之以雷霆。其卒無尾、其始無首。一死一生、一僨一起、所常無窮、而一不可待。女故懼也。

吾又奏之以陰陽之和。

おまえさんが眠くなったのは当然じゃ。

燭之以日月之明。

其声能短能長、能柔能剛、変化斉一、不主故常。

おまえさんが困惑してしまったのも当然じゃ。

けれどもそれ(わしの音楽)は、大いなる意思そのものであるから、

在谷満谷、在阬満阬。

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「荘子」天運篇より。あたまも無ければしっぽもない。はじめも終わりもない「わしの音楽」。様式から自由であると、そんな音楽になるのでしょう。これがそのまま「生き方」の換喩となっている。さすが「荘子」である。

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