没銭買得(銭の買得する没(な)し)(「朱子語類」)
鬱陶しい季節になってきましたので、いよいよ大先生に登場していただいて、ずばっと言っていただきましょう。

精神力の足らないやつは凝らしめてやるダニ!
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南宋の時代のことですが、胡叔器(後に白齋先生としてそこそこ有名な学者になります)が、自分の「精神力」が足りないことを悩んでいる、と打ち明けた。
それを聞いて、先生がおっしゃった。
若精神少、也只是做去。不成道我精神少、便不做。
もし精神少なれば、またただこれ做(な)し去(ゆ)け。成らざるに我が精神少なりと道(い)うは、すなわち做さざるなり。
―――おまえさんなあ、もし精神力が足らないというのなら、とにかくやってみることじゃ。そうでないのに「わたしは精神力が足りないのです」と言うのは、単にやってないだけではないか。
「はあ」
公只是思索義理不精、平日読書、只泛泛地過。不曾貼裏細密思量。
公、ただこれ義理を思索すること精ならず、平日の読書、ただ泛泛(へんへん)地に過ぐ。すなわち曾(つね)に細密の思量を貼裏せざるなり。
―――おまえさんは、ほんと、物事の意味を考えることが精密ではないのだ。普段から書を読んでも、ただぷかぷかと浮き上がったままで過ごしてしまっている。その中で、細かな思索を一度もしたことがない。
「むむむ」
―――おまえさんとそこにいる安卿(後の大学者、北渓先生・陳淳の字)とは全く逆なのだ。安卿の方は実に細密に読書するが、全体像については全く落ちてしまっている(都掉了(すべて掉(お)とし了す))。
と言って先生は、同席していた陳淳の方をぎろりと御覧になった。陳淳は無表情に「うんうん」と頷いている。ニヤニヤも出来ないし怒るわけにもいかないから、それしかないのであろう。
公又不去義理上思量、事物来、皆奈何不得。只是不曾向裏去理会。
公、また義理上に思量し去(ゆ)かず、事物来たればみな奈何(いかん)ともし得ず。ただこれ、曾に向裏に理会し去かざるなり。
―――おまえさんは、もひとつ、意味をきちんと考えようとしないから、何か出来事があったときに、何とも対応できないぞ。ほんとに、いつも物事の内側にまで考えが及ばないでいるのだ。
「はあ」
如入市見鋪席上都是好物事、只是自家没銭買得。如書冊上都是好説話、只是自家無奈他何。
市に入りて鋪席上はこれすべて好物事なるを見るも、ただこれ自家に銭の買得する没(な)きが如し。書冊上はすべて好説話なるに、ただこれ自家に他を奈何(いかん)ともする無きが如し。
―――(おまえさんの状況は)市場に行って、店が広げているむしろの上にあるのを見るとすべてすばらしいモノばかりなのに、ほんと、自分にはそれを買うおカネが無い、というのに似ている。あるいは、本を読んだらすべてすばらしい説明ばかりなのに、ほんと、自分はそこに書かれているようなことができない、という状態だ。
「むむむ」
―――この間、黄君(ここでわたくし・黄義剛の方をちらりと見る)が言っていたとおり、「論語」に「忠恕」(まごころと思いやり)というコトバが出てくるが、これは「本体」と「作用」なのだ。本体が真心で、その作用が思いやりになるのだ。別のものではないのである。形とその影のようなものだ。(お、褒められているようだぞ)
要するにおまえさんたち(胡叔器と陳安卿)は「細部」と「全体」を別々に扱ってしまっていないか。それも形と影のように一体なのだ。
要除一箇、除不得。若未暁、且看過去。却時復把来玩味、少間自見得。
一箇を除かんと要(もと)むるも、除き得ず。もしいまだ暁(さと)らざれば、しばらく看て過ごし去(ゆ)け。却時にまた把来玩味すれば、少間に自から見得ん。
―――どちらか一方を除いてしまおうとしても除いてしまえるものではない。(わかったか?)まあ、なかなかわからんだろうから、しばらく今言ったみたいな見方をして過ごして行きなさい。機会を捕らえてまた把握しなおして大事に味わってみてくれ。そうすれば、そんなに時間を経ずとも、おのずとわかってくるよ。
きついことを言い過ぎたかなあ、と思ったのか、最後は急に優しくなりました。
このあと胡叔器が、「帰郷するのでこの先一人でどう勉強すればいいか教えてください」みたいな甘えたことを言ってまた叱られるのですが、長くなりますので、今日はここまで。
この一条、陳安卿と黄義剛が同席してメモを取っていたらしく、朱晦庵の死後に弟子たちが自分の目もを持ち寄って「語類」を編集したのですが、二人のメモがほとんど違っていないので、実際にこんなふうにしゃべっていたのだと思います。
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「朱子語類」より(ただし、本文は三浦国雄「中国文明選3 朱子集」(1976)から引用。読み下し、現代語訳は肝冷斎)。「語録」という方法で、弟子が先生の発言をメモすることは禅僧たちが始めたことだそうですが(その根っこには「論語」があるのだろうと思いますが)、朱晦庵の「語類」(それぞれの弟子が取った「語録」をテーマごとに編集し直したので「語類」になります)は、中でも特段に「おもしろい」です。
以上。
・・・何がおもしろいかと考えてみるに、朱子という人が怒りっぽいし感情の起伏はあるし、イヤミもよく言うし、実に「聖人君子ではない」からではないかと思います。生きた人間だったんです。しかも、重要なことに、怒られるのは直接の弟子たちで、(その中には相当高名な学者になった人もいるのですが)こちらは怒られているのをにやにやして見ているだけでいいんですから、ほんとに気楽に読めます。とはいえ、こんな感想がほんとの朱子学の人に見つかると怒られるので、見つからないようにこの片隅でじめじめと言ってみました。
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