我来安好(我が来たること安好なり)(「有台仙館筆記」)
わしもムダメシを食わないように気をつけたいと思います。

こんなの当たったら死んでしまうでぶー。
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今(清末)から100年ぐらい前、乾隆帝や嘉靖帝の時代のことですが、福建の杭州に高某というひとがいた。
勇於為善、其少壮時已不殺生、晩年并断葷血。然不奉仏。能辟穀数日不饑。
善を為すに勇にして、その少壮時に已に殺生をせず、晩年には并せて葷血(くんけつ)を断ず。然るに仏を奉ぜず。よく辟穀すること数日なれども饑えざりき。
いいと思ったことは人の止めるのも聴かずにやる人で、また若いころからもう殺生をしないようにしていたのだが、年をとってからはきつい臭いの香辛料や血のある動物や魚類を食べることを止めてしまった。特に仏教を信仰するということはなかったのだが、穀物断ちをして何日間経っても空腹を覚えることはないのであった。
ムダメシも食わなかったのでしょう。
年八十余、無疾而死。
年八十余にして疾無くして死す。
八十何歳まで元気にしていたが、特に病気も無く、(ころりと)死んだのであった。
その古い友人で数千キロ離れた四川の成都に住んでいる人がいたが、
一日忽遇高於途。
一日、忽ち高に途に遇う。
ある日、突然、高老人に道でばったり出会った。
びっくりして言った、
君高年来此、何為。
君、高年にしてここに来たる、何のためぞ。
「おまえさん、その年でここまで来たのは、何の用じゃ?。
なんにせよ、ぜひ、わしの家に寄って行ってくれ」
高は困ったように言った、
我尚思游峨眉山、君其先帰。有扇一握、麈尾一柄、煩君携至我家。并為伝語児曹。
我なお峨眉山に游ばんと思えば、君それ先帰せよ。扇一握、麈尾一柄有り、君を煩わせて我が家に携え至らせん。并せて、ために児曹に語を伝えよ。
「わしはまだこれから四川の奥の峨眉山脈まで旅行する予定なので、おまえさんは一人で家に帰っておいてくれんかな。それから、ここに扇子と払子がそれぞれ一本あるので、おまえさんはこれを杭州のわしの家に送っておいてくれ。もう一つ、子どもらに一言伝えてくれんかな」
我此来安好、勿念也。
我がこの来たること安好なり、念ずること勿れ、と。
「わしの今回の旅は安楽で良好である。心配する必要はないぞ」と。
「わかった・・・」
―――その友は、杭州までそのことを記した手紙と扇子・麈尾を届けてくれた。
家人らが驚いたことに、
高死五月矣。
高死して五月なり。
高老人が亡くなってから、五か月後のことであった。
友人からの手紙に書いてある成都での遭遇の日は、
即其死日。
即ちその死日なり。
ちょうど高の死んだ日に当たっていた。
そして、
一扇一麈尾、皆殉葬物也。
一扇一麈尾は、みな殉葬の物なり。
送られてきた扇子と麈尾は、どうみても棺桶に一緒に入れてやった愛用品だった。
ただ、誰も棺桶まで開いて中がどうなっているかを確認する気にはならなかった。不思議でも何でもない、高老人のような人にはよくあることだ、とみんな思ったからである。
此事載高氏家譜。余門下士高海垞、其族孫也。為余言之。
この事、高氏の家譜に載す。余の門下士・高海垞(こう・かいた)は、その族孫なり。余のためにこれを言えり。
この事件は、杭州高氏の一族の正式記録に載せられていることである。わしの弟子・高海垞は、この高老人の一族の子孫に当たる。その彼が、わしに対して話してくれたことなのである。
だから、信憑性はすごく高い・・・と言いたいようです。
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清・兪樾「有台仙館筆記」巻七より。不思議でも何でもないですよ。量子力学の最先端の仮説によればこんなこと当たり前らしいんです。死んだ人は死んでいなくて、あちらで活躍しておられるらしいんです。
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