自取軽辱(自ら軽辱を取る)(「袁氏世範」)
これは案外勉強になるよ。四つとも持っていると実は尊敬されるかも。

何を笑っているのだろうか。えらそうな心でおれのいつわりの心を妬んで疑っているのかも知れない・・・。
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処己接物、而常懐慢心、偽心、妬心、疑心者、皆自取軽辱于人、盛徳君子所不為也。
己に処し物に接するに、常に慢心、偽心、妬心、疑心を懐く者は、みな自ら人において軽辱を取り、盛徳の君子の為さざるところなり。
自分で行動して他人や物に接する際に、いつも「えらそうな心」「いつわりの心」「ねたみの心」「疑いの心」を持っている者は、みんな自分から人に軽蔑され屈辱を味合わされに行っているのであるから、立派な人はそんなことはしません。
慢心之人、自不如人、而好軽薄人、見敵己以下之人、及有求于我者、而前既不加礼、背後又竊譏笑。若能回省其身、則愧汗浹背矣。
慢心の人は、自ずから人に如かざるに、軽薄の人を好み、己に敵する以下の人を見、我に求むる有る者に及びては、前に既に礼を加えず、背後にはまた竊かに譏り笑う。もしよくその身を回省せば、則ち愧汗の背を浹(うるお)さん。
「えらそうな心」の人は、ほんとは他の人に及ばないのに、軽薄な人ばかりと付き合うのを好み、何かを頼んでくる人がいれば、目に見えるところではきちんとした礼を取らず、相手に見えないところでは隠れて謗り笑っている。もしこの人が自分をかえりみることができれば、恥ずかしくて汗が背中をぐっしょりと濡らすことであろう。
かえりみることができないから「慢心」なんですけどね。
偽心之人、言語委曲、若甚相厚、而中心乃大不然。一時之間、人所信慕、用之再三、則踪跡露見、為人所唾去矣。
偽心の人は、言語委曲にして甚だ相厚きがごときも、中心はすなわち大いに然らず。一時の間は人の信慕するところとなるも、これを再三に用うれば、踪跡露見し、人の唾し去るところと為らん。
「いつわりの心」の人は、言葉は細やかで、たいへん心配してくれるように見えるのだが、心の中ではまったくそうではない。しばらくの間は彼を信頼する人もあるが、二度、三度と付き合っているうちに、その行動様式がバレてしまい、ひとびとに唾を吐かれるようになるだろう。
そうでしょう。
妬心之人、常欲我之高出于人、故聞有称道人之美者、則忿然不平、以為不然。聞人有不如人者、則欣然笑快。此何加損于人。只厚怨耳。
妬心の人は、常に我の人より高出せんことを欲し、故に人の美を称道する有るを聞けば、すなわち忿然として平らがず、以て然らずと為す。人に人に如かざる者有るを聞けば、すなわち欣然として笑快す。是何ぞ人に損を加えらるることあらんや。ただ、怨みを厚うするのみ。
「ねたみ心」の人は、いつも他人より自分が上にいなければ納得しないので、他人のいいところをほめそやす人があれば、むすーとして不平になり、「そうでもないでしょう」と文句をつける。一方、他の人より劣っている面を持つ人の話がでれば、にこにこして気持ちよさそうに笑っている。こんなふうなら他人に迷惑を懸けるわけではないから、やられることはないのではないだろうか。いやいや、怨みはどんどん積み重なっていきますよ。
疑心之人、人之出言、未嘗有心、而反覆思繹、曰此譏我何事、此笑我何事、則与人締怨、常萌于此。
疑心の人は、人の言を出だすに、いまだ嘗て心有らざるも、反覆思繹して、「この我を譏るは何事ぞ」「この我を笑うは何事ぞ」と曰う。すなわち人と怨みを締むるは、常にここに萌せり。
「うたがいの心」の人は、誰かが何かを言うと、別にそんなこと思っているわけではないのに、何度も繰り返し考え尋ね、「あれはわしを謗っているようだが、なぜだ」「あれはわしをあざ笑っているようだが、なぜだ」と言っている。他人との間でいざこざを起こすタネは、いつもここにあるのだ。
賢者聞人譏笑、若不聞焉。此豈不省事。
賢者は人の譏笑を聞くも、聞かざるがごとし。これあに、省事ならざらんや。
賢者は他人が自分を謗ったりあざ笑ったりしているのを耳にしても、聞かなかったように振る舞っている。おかげでずいぶん、要らないことをしなくてよい。
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宋・袁采「袁氏世範」巻二より。週末だから耳の痛くなる話を大サービスです。ああ、だが、袁氏よ、耳の痛い話は自覚してない人に教えても、何の役にも立たないようだ。
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