確非虚語(確かに虚語に非ず)(「郎潜紀聞」)
ウソも方便じゃよ、けけけけ、と笑っても許されるようなえらい人なのに、本当のことを言ったとは、それだけで尊敬してしまいます。

ピノキオレベルの地位ではウソは許されないであろう。
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我が清朝の咸豊期(1851~61)、満洲八旗の名将といえば、忠勇公・多隆阿さまの名がまず上がります。アヘン戦争や太平天国との戦での多将軍の智略や武勇について述べたい―――ところですが、まだ平日なのでガマンしておきます・・・が、
公治軍二十年、所得廉報、悉以賞健士、恤傷亡。
公、治軍二十年、得るところの廉報は悉く以て健士を賞し、傷亡を恤(あわ)れむ。
多公は、軍を率いること二十年間にもなったが、その間に得た安い給料は、すべて手柄を立てた兵士の褒賞と死傷した兵士の救恤金に宛てていた。
ということは言っておきたいと思います。このため、公の家族は大変貧しかった。
旧知の大臣が公の家が貧しいのを知って、
郵寄三千金贈其家。
三千金を郵寄してその家に贈る。
三千万円を郵便為替に立てて、留守の家に贈ってやった。
家族からその大臣にお礼を言ってほしい、と連絡が来ると、
公馳卒追取、為戦士購征袍。
公、卒を馳せて追取し、戦士のために征袍を購(か)う。
公はすぐに部下を行かせてもらったお金を取り上げ、部下の戦士のための軍服を買うのに使った。
こんなこと教えたら、
「すばらしい、みなさんも見習って自助してください」
とZ務省が言ってくるかも知れません。同じ舌で「公助はしないけど税金は払ってください、いや、払え」とも言うでしょう。
多公と双璧といわれた名将・方将軍が戦傷を負った時、皇帝は宮中に秘蔵されていた秘薬を賜り、また黒竜江軍に属していたその息子に知らせて、
馳駅往視。
馳駅して往視せしむ。
公設の宿駅を使って見舞いに行かせた。
一方、多公が傷を負った時には、
其子絮衣葛履、寄食親串。
その子、絮衣葛履して寄食親串す。
その子は、(絹や錦ではなく)わたの服を着、葛で編んだ履物を履いていた。親父に寄食して一緒に生活していた(ので、わざわざ皇帝が命じて見舞いに行かせる必要がなかった)。
方将軍の息子の例に倣って、その子に多公の負傷の状態を報告に来るようにとの指示があったが、粗末な服しか持っていないので、
将軍資以行装、始得上道。
将軍、資して以て行装し、始めて上道を得たり。
負傷していた将軍は、その時はじめてお金を出して旅装を整えさせたので、子どもはやっと都に上ることができたのである。
子どもが独立していなくて怪しからん、親と一緒に暮らす「こどおじ」だと批判しているのではありません。公的な仕事におカネをつぎ込んでいてので、独立の資金を与えていなかった、独立させるお金を持っていなかった、ということです。
多公は遺言で、
不使家有長物、身有余財。
家に長物を有らしめず、身に余財を有らしめず。
わしの家には立派な家財はない。わし自身には葬儀代以外に遺す財産はない。
と書いておられるが、
確非虚語。
確かに虚語に非ざるなり。
たしかにウソではなかった。
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清・陳康祺「郎潜紀聞」二筆巻十三より。ほんと、家具や家財なんか要りませんよね。
なお、今日、NPBがボールの反発力は規定通りだったと発表しているのですが、現実に起こっていることを見たらウソだとわかるのでは?
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