令和6年5月調査(沖縄 船越・大城)

5月15日(水)平日だがすさまじいノルマの間を縫って、おきなわ南城市内で調査に勤しむ。

〇船越 ・・・ 王府時代の資料では「富那腰」と表記されているようですが、15世紀の大城按司の一族、または糸数城主の一族が築城したとされる「船越グスク」の「城下集落」として始まった古い村です。

船越のウッカー(大川)。今もかなりの水量です。この前に船越の水田がひろがっていたそうです。戦前に整備されて、左手の方におなご衆、目の前のあたりはオトコとウマの水浴び場だったとのこと。「おなご衆」といってドキドキする人がいるかも知れませんが、おきなわのおばあたちが入っていたのだと思うとおそろしいです。

船越グスク入口。巨大な花崗岩上にできた単郭のグスクで、大手側から虎口を見上げたところです。ここをのぼると百坪ほどの平坦地があり、現在はいくつかの祠があります。この登り口以外の三方は「亀裂」があり、堀切の役割を果たしている。

船越ののろ殿内。隣に火の神さまを祭る建物もあり、もとのノロ家が途絶えた後にこちらに引き継がれたとかなんとか。この背後は船越グスクにつながっています。

船越拝所群といわれる遺跡(というか現役の聖地)。右手には「山川殿」という石祠です。ここから奥にウタキもあり、ちょっと信じられないぐらい荘厳な雰囲気です。

〇大城 ・・・ いまは集落名は「おおしろ」ですが、島尻地方に勢力のあった大城(うふぐすく)按司の居城・大城(うふぐすく)の城下集落です。

集落裏山なる「上のカー」。うぶ水も死に水もここで取ったという。水道ができるまでは飲料水もここから取った、と書いてありましたが、大城は今でも家の屋上に貯水タンクを挙げているので、水は不足がちなのでしょう。

さらに上にあがるとノロ殿内とノロガーがありました。この建物は昭和58年の再建とのこと。「ヌンルルチ」とカナが振ってあります。大城の最後のノロは戦没した、と書いてありました。

ノロ殿内から等高線をたどっていくと、こんな場所がありました。「上のヘーリンク」と碑が建っているのですが、「へーリンク」という場所名ははじめてみた。

ぐるりと回って急峻な山道を昇りきると大城(うふぐすく)城址です。五六年前にレンタカーで来たはず。先代肝冷斎に報告があったと思うが・・・。この写真は「ノロの踏み石」というもので、ここからおまつりの際の祈禱がはじまる場所です。周囲の木立の裏におまつりの時におまいりする拝所が六か所あるはずですが、草が延びてて確認できません。以前したからいいや。はぶいるかも。

大城から南の方を望む。あちこちに島尻の按司按司たちのグスクがあったであろう。左端の方の尾根(舌状台地)が船越のグスクのある場(のはず)。あそこから歩いてきたんです。

大城の「青年団の鐘」です。公民館の付属地にありました。昭和10年、青年団のおカネで作った鐘で、時間を知らせたりしたそうでうすが、沖縄戦で米軍に接収され、後に返されてきたものだそうです。

町中(バス停の近く)にあった祠。「大城のムッチェー」という場だそうで、大城集落の稲作発祥地とのこと。「ムッチェー」も土地名称として初聞きなので、もっと勉強しなければ、と思わされます。

このあと二時間一本のバスで那覇へ。厳しいノルマがあるのだ。

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