去無所逐(去るに逐(お)うところ無し)(「蘇東坡集」)
肥っているので、追いかけようとすると動悸が激しいんです。

追いかけて来るとコワいよ。
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宋の時代のことですが、
我昔南行舟繋汴、逆風三日沙吹面。
我むかし南に行かんとして舟汴(べん)に繋ぐに、逆風三日して沙は面を吹けり。
わしはかつて役人としての赴任のため南に向かおうとして、舟を汴水のほとり安徽泗州の港に繋いだまま、
向かい風が激しく、わしの顔に川砂を吹きつけて、三日の間出発が出来なかった。
「これはだんなが何か悪いことをしなさったからではないか」
船乗りたちがわしのせいにしようとするのである。
「気づかないうちに河の神、風の神に何か失礼をしていることもありますからなあ・・・」
舟人共勧禱霊塔、香火未収旂脚転。
舟人共に勧むれば霊塔に禱るに、香火いまだ収めらざるに旂(き)の脚転じたり。
船乗りたちがみな勧めるので、有名な泗州の僧伽大師の霊塔にお参りしたところ、
捧げたお香の火がまだ消えないうちに、(舟の)旗の竿がくるりと逆向きになった。
風の方向が変わったのである。
なお、僧伽大師というひとは、唐のころ、西域から来た高僧で、この地で亡くなったのでその墓に塔が立てられた。これが霊験あらたかだというので、宋の時代にも参詣する人が絶えなかったのである。
回頭頃刻失長橋、却到亀山未朝飯。
頭を回らせば頃刻にして長橋失せ、却って亀山に到りていまだ朝飯ならず。
振り返って見ると、あっという間に汴水にかかる長橋は見えなくなっており、
頭を前に向けるともう亀山の町に着いたが、まだ朝飯も食っておらん間のことだ。
お祈りをした効果だ、と言いたいかも知れませんが、
至人無心何厚薄、我自懐私欣所便。
至人は無心なり何ぞ厚薄あらん、我自ら私を懐きて便なるところを欣(よろこ)べるのみ。
神仙や聖人には贔屓心なんか無いのだから、誰に厚く遇し誰を薄く対応しようなどということがあろうか。
我々が、私欲を持っていて、自分にうまくいったことがあると喜んでいる、というだけのことである。
理屈を言っているのではないのです。現実に考えてみてください。
耕田欲雨刈欲晴。去得順風来者怨。
田を耕すには雨を欲し刈るには晴を欲す。去るもの順風を得ば来者は怨まん。
田を耕すときには、雨になって欲しいと思っていたやつが、収穫するときには晴れてもらわんと困るといい、
こちらからあちらに行く者が順風を得たなら、あちらからこちらに来る者は天を怨んでいることだろう。
若使人人禱輒遂、造物応須日千変。
もし人人をして禱れば輒(すなわ)ち遂ぐとせしむれば、造物はまさに日に千変すべかるべし。
もしも人々が祈ることが即座に適えられるものならば、
神さまたちは一日に方針を千回も変えなければならないだろう。
ここのところ、ユーモラスに真理を表現しているわけです。
さて、赴任のために南に旅したときから数十年経ち、現代となった。
今我身世両悠悠、去無所逐来無恋。
今、我は身世両(ふた)つながら悠悠として、去るものに逐うところ無く来たるに恋うる無し。
現在では、わしは自分自身ものんびりしているし、世の中も太平じゃ、
去り行くモノの中に追いかけてでも引き止めたいモノなど一つも無いし、これから来るであろうことで気に掛かることも何もない。
実はもう左遷されて失業しているようなものなので、早く行ってやることなんか無いんです。
南に流されて行くため、また卞水まで来て風待ちをしている。
得行固願留不悪、毎到有求神亦倦。
行くを得るはもとより願えども留まるも悪しからず、到るごとに求むる有れば神もまた倦まん。
出発できるならそれはそれで本来よいことなのですが、留まってしまっていても悪くはない。
今回も僧伽霊塔にお祈りに行ってもいいのですが、毎回お願いしているのでは、神霊もめんどくさくなってくるであろう。
この僧伽霊塔は、
退之旧云三百尺、澄観所営今已換。
退之、旧(もと)云う「三百尺なり」と、澄観の営むところも今すでに換わる。
唐の後半、韓愈(字・退之)が「三百尺≒100メートル」の高さがあり、
澄観という和尚が経営していたのだと言っているのだが、今(宋代)の塔は(そんな高さはなく)もう建て替えられているのだ。
それでも、
不嫌俗士汚丹梯、一看雲山繞淮甸。
俗士の丹梯を汚すを嫌(いと)わざれば、一たびは看よ雲山の淮甸(わいでん)を繞れるを。
(みなさんのような)世俗の人間が行くとあの塔の赤い階段を汚れさせてしまうかも、とみなさんも心配だと思いますが、それでもいいとお思いなら、
一度は昇ってみて、雲と山が淮州の幅三百キロの平地をぐるりと取り巻いているのをご覧になっておくとよろしい。
ニヤニヤしながら嫌味を言っているんですよ。ユーモラスだ。
「甸」(でん)というのは、古代に「王の畿」というのが首都の周辺千里(六百キロぐらい)四方をいい、その外側に五百里(三百キロぐらい)の幅で広がるのが「甸」(でん)という王都に税金を納める地域だ(それよりそとは諸侯が封建される)とされていた(と信じられていた)ため、安徽・淮州あたりを「甸」と呼んでみた(、おいら学あるでしょ)、というものです。あまり気にしてはいけません。
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宋・蘇東坡「泗州僧伽塔」(安徽・泗州の僧伽塔のうた)(「東坡詩集」所収)です。どんな逆境でもニヤニヤと笑いと学びを絶やさない東坡居士の面目躍如たる詩ですね。わしも「去るものは逐うところ無く、来たるに恋うる無し」の状況です。平日にも会社に行かずにほっつき歩いていてよくなりました。どこをほっつき歩いていたかは、帰京してから整理しますぞ。
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