白首無成(白首にして成す無し)(「陶淵明集」)
まあ、しようがないですよ。

いじわるとか考えるときだけは元気なのじゃ。
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栄木、念将老也。
栄木はまさに老いんとするを念(おも)うなり。
「栄木」(えいぼく)の歌を作った。これは、いよいよ老いて来たことを思って作ったのである。
「栄木」は今の木槿(むくげ)のことだそうです。
日月推遷、已復九夏。総角聞道、白首無成。
日月推遷し、已にまた九夏なり。総角に道を聞くも、白首にして成す無かりき。
日と月はどんどん移り、今年もまた夏がやってきた。まだ角のある髪型をしていた少年時代に、学問というもののことを聞いたが、白髪頭になった今まで、何事も成すことができなかったのだ。
「九夏」というのは、夏の三か月、九旬(九十日)をいう。「総角」は総髪を左右に分けて髷を結い、二つの角のようにした髪型で、元服前の少年の姿である。なお、これを近世朝鮮語で読んだ「ちょんが」が日本語に入って未婚者を呼ぶ隠語となった。
そこで、歌を歌いますよ。
采采栄木、結根於玆。
采采たる栄木、根をここに結びたり。
いろいろきらきらのムクゲの木、根をここに張ったのだ。
晨燿其華、夕已喪之。
晨にその華を燿(かがや)がすも、夕べにはすでにこれを喪う。
朝はその花が輝くように咲いていたが、夕べにはもう散り去ってしまった。
人生若寄、憔悴有時。
人生は寄するがごとく、憔悴時に有り。
人の生きるということは、この世界に旅しに来ているようなもの、いずれ疲れ、やつれてしまう。
静言孔念、中心悵而。
静かに言(ここ)に孔(はなは)だ念(おも)、中心悵而(ちょうじ)たり。
何も言わずに、そのことを強く思って、心の中に悲しみが満ちてくる。
悲しくなってきました。以下略。
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晋・陶淵明「栄木并序」(栄木のうた、并(なら)びに「序」)より。もうがんばってもしようがないですよね。若いころにさえがんばらなかったんだから。
でも、上のあと三十行ぐらいあって、最後はこう言って終わります。
脂我行車、策我名驥。
我が行車に脂(あぶらさ)し、我が名驥(き)に策(むちう)たん。
わしの車(の車輪)にあぶらをさし、わしの名高い千里を行く馬にむちをくれよう。
もう一度出発するのだ。
千里雖遥、孰敢不至。
千里は遥かなりといえども、孰(たれ)かあえて至らざらん。
千里の彼方(のような人生の目標)は遥か遠いが、(努力さえすれば)誰にも行きつけないということはないのだから。
ムリしてはいけません。明日から休もうっと。
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