新生之犢(新生の犢)(「荘子」)
岡本全勝さんのHPで肝冷斎が大々的に取り上げられているぞ! 「いつも難しい話をしている肝冷斎」か。これは肝冷斎には最大級の褒め言葉です。わははは。では今日は、肝冷斎が如何にすぐれているかを示すお話をお教えしましょう。・・・と思ったが、こんな話するとみなさん肝冷斎のすぐれているのをやっかんで攻撃してくるかも知れんなあ。悩ましいところだなあ。

肝冷斎はおれたちヒツジと同じぐらい有能だということでメー。むにゃむにゃ。
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悩ましいところだが、教えてあげましょう。
紀元前のずっと昔のことですが、
齧缺問道乎被衣。
齧缺(げっけつ)、道を被衣(ひい)に問う。
「齧じって缺ける(歯っ欠け)」「衣を被る(はだかではない)」と意味ありげな名前の人たちですが、「齧缺」は賢者・王倪(おうげい)の弟子、「被衣」は王倪の師だ、とされていますので、弟子の弟子と師の師という関係に当たります。
齧缺が、被衣老先生に「道とは何ですか」と訊いた。
被衣先生は答えた、
若正汝形、一汝視、天和将至。摂汝知、一汝度、神将来舎。徳将為汝美、道将為汝居
もし汝の形を正し、汝の視を一にせば、天和まさに至らん。汝の知を摂し、汝の度を一にせば、神まさに舎に来たらん。徳はまさに汝の美を為り、道はまさに汝の居と為らん。
たとえば、おまえさんの姿勢を正して、おまえさんは一つのものだけを見つめてごらんなさい。やがて、宇宙の平和意識を感じることができるじゃろう。
おまえさんの知恵を集中させ、おまえさんは一つのことだけを意識してごらんなさい。やがて、宇宙精神がおまえさんの中にやって来るのがわかるじゃろう。
そうすれば、おまえさんが得た能力はおまえさんを美しくし、おまえさんが得た道はおまえさんの家のようになるぞ。
汝瞳焉如新生之犢、而無求其故。
汝、瞳焉(どうえん)として新生の犢(とく)の如くして、その故を求むる無かれ。
おまえさんは、ひとみを見開いて、生まれたばかりの子牛のように世界を見なさい。理由や因果関係を考えたりするな―――。
ぶう。すか。
ぶう。すか。
「ん?」
言未卒、齧缺睡寐。
言いまだ卒えざるに、齧缺、睡(ねむ)りに寐(い)ねたり。
被衣先生のことばがまだ終わっていないというのに、齧缺は、ぶうすかと眠ってしまっていた。
自分で質問しておいて、答えも聴かずに寝てしまったのです。
「おお! すばらしい」
被衣大説、行歌而去之。
被衣大いに説(よろこ)び、行歌してこれを去る。
被衣先生は(齧缺の姿を見て)大いにお悦びになり、歌をうたいながら、そこから去って行った。
その歌に曰く、
形若槁骸、心若死灰、真其実知。
形は槁骸(こうがい)のごとく、心は死灰のごとく、真にそれ、実に知れり。
身体は枯れ木や骸骨のよう(に動くことなく)、精神は燃え尽きた灰のよう(に感情もない)。
これこそ本当に、まことに知っているということだ。
不以故自持、媒媒晦晦、無心而不可与謀、彼何人哉。
故を以て自持せず、媒媒(まいまい)晦晦(かいかい)、無心にしてともに謀るべからず、彼、何人ぞや。
「媒媒」は「まいまい」と読んで、「昧昧」(暗い、見えない)のことだそうです。「晦晦」も「暗い」
理由や原因を把握しようともせず、暗い暗い、見えない見えない、何を考えているのか考えてもいないのか、ともに考えることなどできるはずもない・・・あいつは、一体何者じゃ?
いい歌ではありませんか。
その歌を歌いながら、被衣先生は去って行ったが、その間もずっと齧缺は眠ったままだった。
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「荘子」知北游篇より。この方式の学問ならわたしにもやれそうです、というだけでなく「肝冷斎くんはその齧缺くんの生まれ変わりのようじゃ」と称賛する声も聞こえてまいりそうです。
褒めて、育てる。
岡本全勝さんにも褒められたし、肝冷斎にも自信が湧いてまいりました。よし、あらゆる場で居眠りできるよう、がんばるぞ。
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