誇為盛事(誇りて盛事と為せり)(「鶴林玉露」)
年取ってきてるんで、今日みたいに寒いと腰も痛いしやる気もありません。やることないのはシアワセだが。

今日は新月だそうです。暗闇のように情報が混乱、これからこの国はよくなっていうのか悪くなっていくのか・・・。
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宋・神宗の元豊年間(1078~85)、新法に抵抗する大官たちは、たいてい洛陽に隠棲しておられた。
洛陽諸老為耆英会、図形賦詩、一時誇為盛事。
洛陽の諸老、耆英会を為して、形を図し詩を賦し、一時、誇りて盛事と為せり。
この洛陽に集まっていた老いた君子たちは、あるとき集まって「がんばる老人会」というのを開いた。その様子は絵に描かれ、詩に歌われ、一時期、素晴らしい時代の催しだと評判になった。
しかし、識者たちは言ったものである。
此皆仁宗所養之君子、至是而皆老矣。昇降消長之会、過此甚可畏也。
これみな仁宗養うところの君子なり、ここに至りてみな老いたり。昇降し消長するの会なれば、これを過ぎて甚だ畏るべし。
集まられた方々は、みなさん、先々代の仁宗皇帝(在位1022~1063)の時代に育成され、力を発揮していたひとびとではないか。今や、彼らがこんなに老いてしまったのだ。時代の運勢が昇り調子か降り調子か、よき人たちが衰えていくか盛んになるか、それには必ず転換点がある(。その転換点が今ではないのか)。ここを過ぎた先はどんなことが起こるのか、考えねばならないぞ。
と。
彼らの中にはこんなことを言う人もあった。
天将祚其国、必祚其国君子。
天のまさにその国に祚(さいわ)いせんするには、必ずその国の君子に祚(さいわ)いす。
天が、その国をしあわせにしようとするときには、必ずまずその国のよき人たちをしあわせにする。
彼らが世に出て、力を発揮できるようにするのである。よき人たちのしあわせとは、社会のために力を発揮する場を与えられることなのだから。
それゆえに、
観其君子之衆多如林、則知其国之盛。観其君子之落落如晨星、則知其国之衰。
その君子の衆多なること林の如きなるを観れば、その国の盛んなるを知る。その君子の落落たること晨星の如きを観れば、その国の衰うるを知るなり。
その国によき人たちが多く、林のように並んでいるようなら、その国は盛んになると知れる。その国のよき人たちが葉の落ちるように減って、まるで朝の星のようにまばらになっているようなら、その国は衰えていくことがわかるのだ。
またいう、
観其君子之康寧福沢、如山如海、則知其為太平之象。観其君子之摧折頓挫、如湍舟如霜木、則知其為衰乱之時。
その君子の康寧にして福沢、山の如く海の如きを観ればその太平の象なるを知る。その君子の摧折し頓挫して、湍舟の如く霜木の如きを観れば、その衰乱の時なるを知らん。
その国のよき人たちが安らけく幸福に満ちて、山のように海のように豊かであれば、それは太平の世のしるしである。その国のよき人たちが砕かれ、挫折して、渦巻きに巻き込まれた舟や霜に折れる枯れ枝のようになっていれば、その国はもう衰え乱れていくばかりなのだ。
識者たちはまた言い合った、
皆至論也。
みな至論なり。
「どちらも、まことにそのとおりですな」
と。
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宋・羅大経「鶴林玉露」丙編巻一より。肝冷斎たちを大切にしよう、と言っている・・・ように聞こえませんか。まったく天下の至論だが、果たしてみなさんは大切にしてくれるかな?
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