寡人之過、一至此乎  令和5年2月5日(日)

春秋の時代のことですから、ずいぶん昔のことですが、楚の国に優孟という人がおりました。「優」は俳優の「優」、彼は楚の故(もと)の楽人(楽団員)であった。
時に楚の荘王(在位前613~前591 )にはたいへん愛する馬があって、飾り付きの服を着せ、豪華な厩に住まわせ、ベッドの上に寝かせ、ナツメで煮込んだ肉を食べさせていた。ところがこのウマ、
病肥死。
(肥を病みて死す。)
太りすぎて死んでしまったのだ。
哀しいことです。
王さまも大変悲しまれまして、宰相らにウマの葬儀を行わせ、大夫の礼を以て葬ることを命じた。臣下の者たちは
「ウマを大夫として扱うなど聞いたこともございませぬ!」
と大反対したが、王は聞かず、
「これ以上ウマの葬儀の問題で諫言するものは死罪に処す」
と命令を出したのであった。
すると、優孟が王宮にやってきました。
入門仰天大哭。
(門に入りて天を仰ぎて大哭す。)
門に入ったところで、天を仰いで大声で泣いた。
王さまが驚いて、「どうしたのだ?」と問うと、
優孟は言った、
「王さまに、ウマの葬儀の問題で諫言するものは死罪に処す、と言われましたのに、ウマの葬儀の問題で諫言をしにまいりましたので、ああ、これから死ぬのだと思い、自分自身のことを泣いたのでございます」
「その話をするなら本当に死罪にするぞ」
優孟は覚悟を決めた真剣な面持ちで、言った。
以楚国堂堂大、何求不得。而以大夫礼葬之、得之薄。請以人君礼葬之。
(楚国の堂々の大を以て何を求めて得ざらんや。しかるに大夫礼を以てこれを葬る、これ薄きを得ん。請う、人君の礼を以てこれを葬らん。)
「我が楚国は堂々たる大国でございます。しようと思えば何でもできます。それなのに、大切なウマさまを葬るのに大夫の扱いで葬られようとするのは、なんと倹約した葬儀でございましょうか。お願いです、ウマさまを君主の扱いで葬ってください」
「ど、どういうことだ?」
「まずは彫刻を施した玉で作った棺、それを覆うのは梓の木の箱、宝石や金銀を隙間に詰め、若者は全員徴発して武装させて儀仗を組み、それ以外の年寄と子どもを国中から集めて巨大な穴を掘らせ、もっこを担がせて土を運ばせるのでございます。斉・趙・韓・魏の各国の使者を招き、何頭ものウシを屠って大牢の料理を作り、葬儀の後には墓を守るために一万戸の民を封じるのです。
このようにすれば、ウマの名誉は高まり、国民も外国の使臣らも、みな王よりウマさまを尊敬するようになることでございましょう。
ああ、このような諫言を申し上げた以上、臣は死罪にされねばなりません。王様、長らくお世話になりました」
王は苦り切った顔で言った、
寡人之過、一至此乎。
(寡人の過ち、一にここに至れるか。
「わかった。わしの間違いは、これほどだったのだな」
そこで、優孟にウマをどのように葬ればいいかと諮ったところ、優孟は答えて言った―――
 槨(棺の外覆い)には土を使ってカマドを作りましょう。
 棺には青銅の鼎を用いましょう。
 飾りとして、ショウガやナツメを振りつけます。
 いぐさで作ったむしろでお包みしましょう。
 位牌の前には穀物を調理して捧げましょう。
 火の光を以てこれをお送りし、
葬之於人腹腸。
(これを人の腹腸に葬らん。)
 最後はわれわれのおなかの中に葬ってやりたいと思います。
 これが六畜(ウシ、ウマ、ブタ、ヒツジ、イヌ、ニワトリ)を葬る儀礼でございます。
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「史記」滑稽列伝第六十六より。総理秘書官が辞任されたそうです。国葬儀の時の総理挨拶も書かれた方だとか。そういえば国葬儀の時になぜ誰も「大喪礼を以て葬れば如何」とは言わなかったのでしょうか。大喪礼だと法律が要るからか。うっしっし。HP消失で言いたいこと言えるようになったなあ、もうしばらくはこうしておこうかなあ。

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