何必山水(何ぞ山水を必せん)(「明語林」)
休みの日ですが、無理に遠いところに旅行に行く必要はないんです。

出かける時はペットのエサちゃんと手配してけニャー。おれは憑りついてるからいいけどニャー。
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明の半ばごろ、蘇州では、
山人陸中行、吐納風流、寄詞逸婉。
山人の陸中行、風流を吐納し、寄詞逸婉なり。
「吐納」(とのう)はもとは医学用語で、「吐故納新」(故(ふる)きを吐きて新しきを納る)という呼吸法のことだそうですが、ここでは「吐いたり納れたり、どちらも」→「何をしても」の意です。
山中に棲む隠者の陸中行は、何をしても風流で、何かを語ればいつも飄逸で温和。
というので、たいへん人気があった。
時に、
弄扁舟五湖間、信風来遄。
扁舟を五湖の間に弄して、風に信(まか)せて来たること、遄(すみや)かなり。
小さな小舟を自分で操り、江南の五つの湖のあたりをめぐり、帆を吹く風に任せて、あっという間に移動してきた。
一日過呉門、黄淳甫異之。
一日、呉門を過ぎり、黄淳甫これを異とす。
ある日、彼は蘇州・呉門を通り過ぎたが、それを見た呉門の文人・黄淳甫は、大変感動したらしい。
以来、
洒洒晨夕、拍浮曰、見陸生、引人自遠、何必山水。
洒洒(しゃしゃ)として晨夕に拍浮して曰く、「陸生を見れば、人を引くこと自ずから遠し、何ぞ山水を必せん」と。
「洒洒」(しゃしゃ)は、その江戸時代訳語である「しゃあしゃあ」をみればわかりますように、「さっぱりとして物にこだわらない様子」です。「しゃあしゃあとしやがって・・・」の「しゃあしゃあ」です。
「拍浮」は、もとは、浮いたり沈んだりして泳ぐこと、を言います。
「世説新語」任誕篇にいう、畢茂生はつねに、言っていた、
一手持蟹螯、一手持酒杯、拍浮酒池中、便足了一生。
一手に蟹螯を持し、一手に酒杯を持して、酒池中に拍浮すれば、すなわち一生を了するに足れり。
片手にカニのハサミ(美味の代表)を持ち、もう一方に酒のさかずきを持って、お酒の池の中で浮いたり沈んだりぷかぷかしていられるなら、そのまま人生を終わらせるに十分だ。
まことに、そりゃそうだ、というすばらしいコトバですが、以来、「拍浮」は実際に泳ぐよりも、詩や酒に溺れる生活のことをいうようになりました。
陸中行を見た日から、黄淳甫は、
あっさりとして物ごとにこだわらなくなり、朝も晩もお酒を手にしてデカダンスな生活をしながら、
「陸さんを見れば、人はおのずと遠いところ(都会から、生活から、人生から・・・)に引っ張られて行ってしまう。山水の景色を見る必要なんかもう無いのだ」
と言っていた。
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清・呉粛公「明語林」巻十・企羨(きせん=爪先立って望みうらやむ、あこがれる)篇より。遠くへ行くより近くのスーパー銭湯、と昔の人も思っていたんやなあ。
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