9月29日 どこをほっつき歩いておるのか

何必山水(何ぞ山水を必せん)(「明語林」)

休みの日ですが、無理に遠いところに旅行に行く必要はないんです。

出かける時はペットのエサちゃんと手配してけニャー。おれは憑りついてるからいいけどニャー。

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明の半ばごろ、蘇州では、

山人陸中行、吐納風流、寄詞逸婉。

「吐納」(とのう)はもとは医学用語で、「吐故納新」(故(ふる)きを吐きて新しきを納る)という呼吸法のことだそうですが、ここでは「吐いたり納れたり、どちらも」→「何をしても」の意です。

というので、たいへん人気があった。

時に、          

弄扁舟五湖間、信風来遄。

一日過呉門、黄淳甫異之。

以来、

洒洒晨夕、拍浮曰、見陸生、引人自遠、何必山水。

「洒洒」(しゃしゃ)は、その江戸時代訳語である「しゃあしゃあ」をみればわかりますように、「さっぱりとして物にこだわらない様子」です。「しゃあしゃあとしやがって・・・」の「しゃあしゃあ」です。

「拍浮」は、もとは、浮いたり沈んだりして泳ぐこと、を言います。

「世説新語」任誕篇にいう、畢茂生はつねに、言っていた、

一手持蟹螯、一手持酒杯、拍浮酒池中、便足了一生。

まことに、そりゃそうだ、というすばらしいコトバですが、以来、「拍浮」は実際に泳ぐよりも、詩や酒に溺れる生活のことをいうようになりました。

陸中行を見た日から、黄淳甫は、

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清・呉粛公「明語林」巻十・企羨(きせん=爪先立って望みうらやむ、あこがれる)篇より。遠くへ行くより近くのスーパー銭湯、と昔の人も思っていたんやなあ。

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