9月28日 かんたまが無いと話が長い

如冠玉耳(冠玉の如きのみ)(「史記」)

かんたまではなくかんぎょくです。

野球シーズンも寒くなってまいりました。

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「史記」陳丞相世家にいう、秦を滅ぼした後に楚と漢が争い、まだ漢の勝利が見えないころのことですが、漢王・劉邦に対して、

絳王、灌嬰等咸讒陳平曰、平雖美丈夫如冠玉耳。其中未必有。

あの男は、家に居る時は兄嫁と密通し、それがバレて郷里に居られなくて楚に逃げた。楚でいろんな献策をしたが、何一つうまくいかず、楚に居られなくなって、我が漢に逃げてきた。あの男は、軍師をしておりますが、諸将から賄賂を取っている。多く賄賂した者にはよい持ち場を与え、賄賂の少なかった者には危険で手柄の見込めない持ち場を与える。

平反覆乱臣也。

「ああ、そうか」

と、漢王・劉邦は陳平を推薦した魏無知を呼び出して、責めた。

魏無知は嘆息して、言った、

臣所言者能也。陛下所問者行也。今有尾生孝己之行而無益於勝負之数、陛下何用之乎。

「尾生」は戦国の時代の伝説的な人で、何をしたかといいますと、女性と橋の下で逢引することを約束したが、女性は来ず、豪雨になって川が増水してきた。人びとが危険を説いたが。尾生は女性との約束の場を離れることなく、最後は橋柱を抱いて水死した。古来、要らぬ忠義建てをして身を破滅に陥らせた例として引かれる。

「孝己」は超古代、殷の武丁の息子・祖己(そき)のことだとされています。

「史記」殷本紀に云う、武丁がご先祖のお祀りをしたところ、

明日有飛雉、登鼎耳而呴。武丁懼。祖己曰、王勿憂。先修政事。

などと、父の為政を輔佐した人で、武丁の死後、

祖己嘉武丁之以祥雉為徳、立其廟為高宗。

そうで、親を支え、その死後も敬愛し続けたことから、「孝行息子の祖己」→「孝己」と称せらる。

閑話休題―――――。

魏無知の言葉が終わると、

「ああ、そうか」

と、劉邦は、ひきつづき陳平を謀士として用い続けたのであった。

・・・と、漢の高祖の性格とその周辺の人物像が活き活きと描かれております。特に、

は、「人柄より能力」「マジメなやつより型破り」という企業の人材登用方針を「いいですなあ」「さすがですなあ」と褒めあう時に使われる言葉なので、要チェック。ゴルフ場で社長同士の会話に出てきたりするかも知れませんので、お付きの者は覚えておかないといけない可能性がわずかにある程度の言葉です。

ところが、高祖の死後、呂太后の専制で漢王朝が呂氏に乗っ取られようとしたときにクーデタによりそれを防いだのが、まさにこの陳平、周勃、灌嬰だったというのも大変興味深い・・・のですが、今回の興味は人間関係ではなく、

「冠の玉」

についてです。

「史記」顔師古注にいう、

飾冠以玉、光雖外見、中非所有。

「南史」鮑泉伝にいう、

帝責泉亦曰、面如冠玉、還如木偶。

近人多以此二字為美称、若検本書示之、恐非所喜矣。

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清・梁章矩「浪迹叢談」三談巻三より。最近のやつらはダメだな、と思いましたが、梁章矩が嘉慶から道光にかけての人なので、もう200年ぐらい前のやつらのことでした。最近のやつらは、よくなっているのかも?

ちなみに、わたしの「観タマ記」は「かんぎょく」ではありません。みなさんこそ、冠玉のように光り輝いておられますなあ。

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