如不能言(言う能わざるが如し)(「宋名臣言行録」)
わたしも、何も言えず、「言いたいことがあればはっきり言え!」とよく怒られたものですが、なんとかまだ生き延びています。月曜日は「体調悪いんで」という電話はよく入れましたが、コロナ流行後はこのフレーズは使えない。

呪いコワいときに仮病はまずい。表に出られなくなってもっと呪いがコワくなるぞ。
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北宋建国のころのことでございますが、太祖・趙匡胤は、腹心の趙普と江南攻略のことを議して言う、
平蜀多殺人、吾今思之猶耿耿、不可用也。
蜀を平らぐるに多く人を殺す、吾今これを思うになお耿耿たり、用うるべからず。
「四川征伐の際にはずいぶん多くの人を死なせてしまった。わしは今でもそのことを思うと心が安らかでない。そんなことにしてはならん」
「耿耿」は「明るく輝く様子」と「心が安らがない、不安である」の両義があります。「明るく輝く」はおかしいので、後者です。
趙普はそこで曹彬を薦めた。
曹彬は江南攻略の総大将となって、南唐国の都である金陵(南京)に迫った。
攻金陵、垂克、忽称疾不視事。
金陵を攻め、克たんとして、忽ち疾を称して事を視ず。
金陵(南京)を攻撃して、もうすぐ降伏にこぎつけられそうだ、という日、突然「病気になった」と称して指示を出さなくなった。
現場の将軍たちは困った。この先どうするのか。どうするかを判断できる健康状態なのかもわからない。このままでは、軍の士気にも関わってくる。
諸将皆来問疾、彬曰、余之病、非薬石所瘉、唯須諸公共発誠心、自誓、以克城之日、不妄殺一人、則自瘉矣。
諸将みな来たりて問疾するに、彬曰く、「余の病は薬石の癒すところにあらず、ただすべからく諸公ともに誠心を発して、自ら、克城の日に一人も妄りに殺さざることを以て誓えば、すなわち自ずから瘉えん」と。
将軍たちがみな集まって来て病状を問うに、曹彬は自ら言った。
「わしの病気は薬石によって治るものではないのじゃ。ただ、おまえさんたちがみんな心の底から自発的に、「金陵占領の日に誰一人理由なく住民を殺さない」と誓言して欲しい。そうすればわしの病気は自然に治るのじゃ」
お医者さまで草津の湯でもなかったのです。
「はあ」(なんだ、仮病か)
みたいな感じで、
諸将許諾、共焚香為誓、明日稍瘉。
諸将許諾し、共に香を焚いて誓いを為し、明日稍や瘉ゆ。
諸将軍たちは承諾して、ともにお香を焚いて神前に誓い合った。次の日、曹彬は少し体調を取り戻したとのことであった。
宋軍の紀律は徹底され、
及克金陵、城中皆安堵如故。
金陵に克つに及んで、城中みな安堵して故(もと)の如し。
金陵は降伏して開城したが、町中ではひとびとはみんな安心していつもどおりの生活を営んでいた。
恐らく略奪の禁止は以前から発布されていて、曹彬の「お芝居」は、そのことを現場までもう一度徹底するための材料にさせる、ということに意味があったのでしょう。将軍たちは戻って将校たちに、
「大将軍の病気平癒のためだから兵士にも徹底しておくように」(笑)
と笑いながら?伝え、士官たちは兵卒を集めて
「うちの将軍は大将軍の前でこんなことを誓ってきたのだから、将軍に恥をかかせるな」
と怖い顔をして?指示する、「朝礼の題材」を作ったのです。
曹彬の適切な統率のおかげで、金陵は史上初めて、略奪を受けずに開城し、以降、大宋帝国の財源地帯となった。
曹彬はこの後、枢密使(軍関係の副宰相、参謀本部長)に至る。
与太祖密論天下、事無不合上意。而公堂会議、如不能言。
太祖と天下を密論するに、事の上意と合わざる無し。しかるに公堂の会議には、言う能わざるが如し。
彼は太祖から、天下の事について秘密に相談を受けることが多々あった。その際、結論はつねに彼と帝との間で齟齬することがなかった。ところが、他者を含んだ公の会議になると、まるで口が利けないかのように黙りこくっているのであった。
だから、
太祖益所器重。
太祖ますます器重するところなり。
太祖は、ますます彼を尊重するようになったのである。
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宋・朱晦庵編「本朝名臣言行録」より。みなさん、明日から平日です。きついと思いますが、なんとか出勤しましょう。しかし、会議では何も言わない方がいいみたいですよ。「おいらなんていなくても一緒でしょ、うっしっしー」みたいな気持ちでいきましょう。