不復入市(また市に入らず)(「郎潜紀聞」)
コメ美味い! 田んぼを持っていなければ、コメ入手のためには、市場に出かけるしかありません。

タンパク質や脂肪も取らなければでモー。
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江蘇・東海といえば今では水晶の一大産地として有名ですが、清の初めごろ、ここに
東海高士(東海の高尚な読書人)
といわれる人がおられました。
この人、名前は、
董樵、初名震起、以明季大乱、雅志林泉、慕古人牧豕採薪之風、因而易名。
董樵、初名震起、明季の大乱を以て、林泉に雅志し、古人の牧豕(ぼくし)採薪の風を慕い、因りて名を易(か)う。
董樵(とう・しょう)という。もとの名前は震起だったそうだが、明の末の農民反乱をみて、町から離れた林や泉のある土地での暮らしにの方に興味を持ち、いにしえの隠者がブタを飼い、薪木を取って暮らしていたのに憧れて、名前を「きこり」(樵)と変えてしまったのである。
甲申後、徙居文登海浜、荷蓧入市易米、人莫知其住処。
甲申の後、居を文登の海浜に徙(うつ)し、荷蓧して市に入りて米に易うるも、人その住む処を知るなし。
「甲申」(かのえ・さる)の歳は、明末の崇禎十七年(1644、清の順治元年)のことで、この年三月、李自成の反乱軍の前に北京が陥落し、崇禎帝は自ら縊れて亡くなり、実質上明が滅亡しました。
甲申年の明の滅亡の後は、居所を海岸沿いの文登に移し、蓧(あじか)の両側に薪を積んで肩に担っては市場にやってきて、コメに交換して帰っていく生活をするようになった。
彼が高尚な世捨て人だということはみんな知って尊敬していたが、彼がどこからやってくるのか、誰も知らなかった。
文登県のある紳士が、
邀於途。
途に邀(むか)う。
市場に行く途中の彼を待ち伏せて、面会したことがあった。
董樵は相手が相当の読書人であると覚ると、
棄薪道左、云、吾科頭、当取冠。与公揖、竟去。
薪を道左に棄てて云う、「吾科頭(かとう)なり、まさに冠を取るべし」と。公と揖して、ついに去る。
荷ってきた薪を道ばたに放り出して、
「あいにくわしは頭を丸出しにして来てしまった。(あなたに挨拶しなければならないので)冠を取りに家に行ってきます」
と言い、知識人同士がする「揖礼」(手を前で組んで左右に一振りする挨拶)をした上で、どこかに行った。
読書人同士の礼儀を守って冠を取りに行く、というのですから、「士相見礼」(地方の紳士同士がはじめて出会ったときにシキタリ)に従って、紳士の家まで挨拶に来て酒食をともにするはずです。
紳士はたいへん喜んだ。
だが、
日暮不復来。
日暮るれどもまた来たらず。
董樵は、日が暮れても、戻ってこなかった。
「しようがないひとだなあ」
紳乃取棄薪以帰、曰、此董高士所遺也。
紳すなわち棄薪を取りて以て帰り、曰く、これ董高士の遺すとこりなり、と。
紳士はしようがないので放り出された薪を拾って家に帰り、「これは董高士さまの遺品である」と言いふらした。
董樵は、
従此不復入市。
これよりまた市に入らず。
これ以降、もう市場にも来なくなってしまった。
コメを手に入れることができなくなりました。何を食べていたのでしょうか。
「コメが無ければパンを食べればいいじゃない」
と思いますので、パンでしょうか。
董樵のことは、朱竹垞や王漁陽といった清初の大知識人たちが称賛している。
其孤厳逸軌、他日当有収之隠逸伝。
その孤厳逸軌、他日まさにこれを隠逸伝に収むる有るべし。
彼の厳しい孤絶、常識を離れた振る舞いなど、いつか(清の歴史をまとめる時がくれば)「隠逸伝」に載せるべき人であろう。
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清・陳康祺「郎潜紀聞」四筆巻四より。パンでも餅でもうどんでもケーキでも、炭水化物だけは何とか食べなければなりません。
董樵はそんなに「隠逸」な人ではなくて、対清抵抗戦争に参加して参謀をしていた時期もあるらしく、名前を替え、突然踏み込まれないように住所を隠す必要があったようです。この「紳士」にはどこに住んでいるか知られたくなかったみたいですが、人間社会と完全に絶縁していたわけではなくて、晩年に友人と飲んだときの詩なども遺っております。
衰老思前事、豪華変世情。渓山独不改、仍是旧逢迎。(終日飲花石峯)
衰老して前事を思えば、豪華たるも世情を変ず。渓山ひとり改めず、なおこれ、旧によりて逢迎す。
老い衰えた今となって、昔のことを思うと、
豪放で華麗な活動をしていたものだが、世の中は変わってしまった。
ここの谷や山の風情だけは変わらずにあるから、
ここで昔通りにおまえさんを出迎えよう。
「一日中、人と花石峯で飲んでいたんじゃ」という詩です。