9月11日 炭水化物にこだわりすぎ?

不復入市(また市に入らず)(「郎潜紀聞」)

コメ美味い! 田んぼを持っていなければ、コメ入手のためには、市場に出かけるしかありません。

タンパク質や脂肪も取らなければでモー。

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江蘇・東海といえば今では水晶の一大産地として有名ですが、清の初めごろ、ここに

東海高士(東海の高尚な読書人)

といわれる人がおられました。

この人、名前は、

董樵、初名震起、以明季大乱、雅志林泉、慕古人牧豕採薪之風、因而易名。

甲申後、徙居文登海浜、荷蓧入市易米、人莫知其住処。

「甲申」(かのえ・さる)の歳は、明末の崇禎十七年(1644、清の順治元年)のことで、この年三月、李自成の反乱軍の前に北京が陥落し、崇禎帝は自ら縊れて亡くなり、実質上明が滅亡しました。

彼が高尚な世捨て人だということはみんな知って尊敬していたが、彼がどこからやってくるのか、誰も知らなかった。

文登県のある紳士が、

邀於途。

董樵は相手が相当の読書人であると覚ると、

棄薪道左、云、吾科頭、当取冠。与公揖、竟去。

読書人同士の礼儀を守って冠を取りに行く、というのですから、「士相見礼」(地方の紳士同士がはじめて出会ったときにシキタリ)に従って、紳士の家まで挨拶に来て酒食をともにするはずです。

紳士はたいへん喜んだ。

だが、

日暮不復来。

「しようがないひとだなあ」

紳乃取棄薪以帰、曰、此董高士所遺也。

董樵は、

従此不復入市。

「コメが無ければパンを食べればいいじゃない」

と思いますので、パンでしょうか。

董樵のことは、朱竹垞や王漁陽といった清初の大知識人たちが称賛している。

其孤厳逸軌、他日当有収之隠逸伝。

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清・陳康祺「郎潜紀聞」四筆巻四より。パンでも餅でもうどんでもケーキでも、炭水化物だけは何とか食べなければなりません。

董樵はそんなに「隠逸」な人ではなくて、対清抵抗戦争に参加して参謀をしていた時期もあるらしく、名前を替え、突然踏み込まれないように住所を隠す必要があったようです。この「紳士」にはどこに住んでいるか知られたくなかったみたいですが、人間社会と完全に絶縁していたわけではなくて、晩年に友人と飲んだときの詩なども遺っております。

衰老思前事、豪華変世情。渓山独不改、仍是旧逢迎。(終日飲花石峯)

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