亦無事(また無事なり)(「宋名臣言行録」)
実はやる気無かったんでしょう。

死神サトルヌス来訪直前レベルの疲労度です。
・・・・・・・・・・・・・
北宋の時代のことでございます。
文康公・王曙と簡粛公・薛奎は、
倶嘗鎮蜀、而皆有名。
ともに嘗て蜀を鎮め、みな名有り。
二人とも以前、蜀(四川省)を治めていたことがあり、どちらも名高かった。
天聖年間(1023~32)の後半に、二人とも参知政事(副宰相、と訳されます)として、政務を取り仕切っていたが、
一日、奏事已、因語蜀事。
一日、奏事已み、因りて蜀事を語る。
ある日のこと、予定されていた皇帝にご相談すべきこともすべて終わり、くつろいだ状況で、二人は四川にいたころの昔話を始めた。
この当時は四川は北に西夏、南に大理という独立国を控え、治安上も問題があった。このため、歴代優秀で有望な文官を総督として派遣していたので、「四川に赴任経験がある」というのはエリート官僚にとって「箔」だったのです。
文康曰臣在蜀時有告戌卒叛。
文康曰く、「臣蜀に在りし時、戌卒の叛くを告ぐるあり。
王文康が言った。
「わしが四川にいたころのことだが、ある日、護衛隊が、反乱が起こった、と報せにきた。
乃執而斬之於営門、遂無事。
すなわち執りてこれを営門に斬りて、遂に無事なりき。
そこで、すぐにそいつらを捕まえて、城門のところで斬り捨てた。その後特段の問題は無かった」
「そうでしたか」
簡粛曰く、
臣在蜀時、亦有告戌卒叛者。叱出之、亦無事。
臣蜀に在りし時、また戌卒の叛くを告ぐる有り。これを叱りで出だし、また無事なりき。
「わたしが四川におりましたころに、やはり護衛隊が、叛乱が起こった、と報せに来た。そこでわたしは「うるさい!」と怒鳴って追い返してしまった。その後やはり特段の問題はございませんでした」
そう言って、二人で顔を合わせて大笑いしたそうです。
・・・・・・・・・・・・・・・・
宋・朱熹編「宋名臣言行録」(仁宗朝)より。どちらがエライでしょうか。わたしどもやる気ないので、なんとなくインプットがほとんどないのに効用は同じだった薛簡粛の方に与したくなってしまいますが、当時の人には「臨機応変に対応すべきで、二人とも立派である」という「両方誉め」だと認識されていたみたいです。