正合如是用(正にかくの如く用うるべし)(「茶余客話」)
利用できるものは何でも利用しなければ。

おれたちオニは心が荒廃しているから、イヤなお客は問答無用で頭かち割ってしまうよ!
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清の時代のことですが、同僚の潘稼堂は、「優伶」(いわゆる「俳優」)が大嫌いであった。
嘗請于当事禁其教演。官翰林、又陳奏請禁。
嘗(つね)に事に当たりてその教演を禁ぜんことを請う。翰林に官たりてまた請禁を陳奏せんとす。
これまでも、何かの事案が起こるとそれにかこつけて、(官費によって)俳優たちを育成したり戯曲の上演をさせたりすることを禁止するよう意見を提出してきたのだが、このたび、皇帝の顧問官となったので、また禁止の請願を提出しようとしていた。
まためんどうなことをしようとするものです。
余謂是誠無益、禁之亦不必也。
余、謂う、これ誠に無益、これを禁ずるもまた必することあらず。
わしは言ってやった。
「それは誰の利益にもならないぞ。それに、禁止したところで守られるはずがないではないか」
「だが、彼らは何物をも生み出さないのに、養っておくのに高い費用がかかる。世の中のムダではないか。わしはそれが許せないのだ」
いやはや、これは何もわかっていないようだ。
東坡生平不耽女色、而亦与妓游、凡待過客、非其人則盛女妓糸竹之声、終日不輟。
東坡生平は女色に耽らざるも、また妓と游び、およそ過客を待つに、その人にあらざれば則ち女妓糸竹の声を盛んにして終日輟めず。
「宋の蘇東坡は、普段は美しい女に耽溺することはなかった(ほんとかな?)。しかし、地方勤務のころは、妓女(当時は接待や行事用に官営でした)とも適当に遊んでいた。任地にやってくる中央官庁からのお客は官費で接待することになっていたが、気に入らないのが来ると、妓女と琴や笛の演奏で一日中接待漬けにしてしまうのだった。
したがって、彼の任地にその客が数日滞在するとして、
有数日不接一談、而過客私謂待己之厚。
数日に一談も接さざる有るも、過客ひそかに己を待つの厚きを謂えり。
数日の間(妓女の接待ばかりで)東坡とは何の会話もしないことがあっても、お客様は勝手に「ずいぶんよい待遇だった」と言ってくれたのである。
これに対し、
至有佳客至、則屏妓銜杯、座談累夕。
佳客の至ること有るに至れば、則ち妓を屏して杯を銜(ふく)み、座談累夕す。
お気にいりのいいお客が来たりすると、妓女をしまいこんで互いに杯を差し合いながら、幾晩も語り続けたのである。
東坡真解事。今之優伶、正合如是用。禁之奚為哉。
東坡真に事を解せり。今の優伶、まさにかくの如く用うるべし。これを禁ずるも奚(なに)をか為さん。
この「合」は「当」と同義、「まさに・・・すべし」と訓じて「当然」の意を表す助字。
蘇東坡はやはり真に物事の裏も表も理解していた、ということができよう。現代(清の時代です)の俳優たちは、東坡の時代(宋の時代です)の官営妓女のように、(邪魔なやつらをそちらにくぎ付けするのに)活用すればいいではないか。その存在や上演を禁止したところで何の役に立つかね」
「なるほど、そういう利用法があるか・・・」
一応理解はしてもらえたようである。
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清・阮葵生「茶余客話」巻十八より。「文化」「芸術」「野球」「格闘技」・・・その他、この世の「ムダの意義」を理解しない人に理解してもらうには、こういう言い方しておけばいいみたいですよ。