7月30日 釜の蓋開けちゃったやつはだれか

為我発悲音(我がために悲音を発す)(「七哀詩」)

ゴゴゴゴゴ・・・と重い音を立てて、どうやらジゴクの釜の蓋(地球温暖完了の肝冷斎なりの譬喩かも)が開いてしまったらしく、非常識に暑いです。しかし、なんとなく今日が峠だったかな、という気がしますので、今日はマジメに漢詩でも読んでみましょう。

夏山には「あずきあらいましょか人とって食おか」のあずきあらいの歌がわびしく響いているであろうか。

・・・・・・・・・・・・・・・

荊蛮非故郷、何為久滞淫。

「淫」は「みだら」ではなくて、「みだりに」「多すぎる」の意味です。へへへ、と笑いかけたみなさんは残念ですが。

・・・だが、中原にわたしを受け入れる地はないので、さらに上流、蜀の地方に行ってみようと思う。

方舟遡大江、日暮愁我心。

一艘だけで移動するのは、途中で何あったときに絶望しなければならないので、どんな旅でも舟なら二艘、馬なら二頭を並べて出かけるものだという。

山崗有余暎、巌阿増重陰。

狐狸馳赴穴、飛鳥翔故林。

彼らにも帰るべきところがあるのだ。

流波激清響、猴猿臨岸吟。

彼らにはみな、仲間や友だちがあるのだ。

やがて、日はとっぷりと暮れました。

迅風拂裳袂、白露霑衣衿。

夜は更けていく。

独夜不能寐、摂衣起撫琴。

ぼよよよん。

糸桐感人情、為我発悲音。

楽しい音ではないんです。

羈旅無終極、憂思壮難任。

・・・・・・・・・・・・・・・

魏・王粲「七哀詩」二(「文選」巻二十三所収)です。王粲は字・仲宣、後漢の熹平六年(177)生、献帝に従って(董卓に連行されて)長安に遷り、長安焼亡の後、荊州に亡命したが、やがて魏武侯・曹操に仕え、「建安の七子」として重用さる。建安二十二年(217)卒。つまり、この詩は二世紀末~三世紀初ごろの詩なんです。関羽や張飛のような原始的としかいいようがないような人たちと同時代(※)のくせに内容がなかなか近代的で、ヒミコさまの墓(と畿内説の方がいうところの箸墓古墳)が作られるより前に作られた詩だ、といわれると、人間の本性があまり変化していないのに驚いてしまいませんか。・・・そうですか。(※ほんとの関羽や張飛ではなく「三国志演義」や「横山光輝三国志」の関羽や張飛のことをいっているだけです。念のため)

ところで、この「七哀詩」、「文選」には二首しかありません(もう一首は長安から亡命するときに見聞した、母が子を棄てる場面を歌ったもの。みなさん「あ、そう、ふーん、大変ですね」と笑うかも知れませんが、わたしは大人になった今でも「安寿こいしやほうやれほ、厨子王こいしやほうやれほ。」と口にすると涙が浮かんでまいりますので、母が子を棄てる方の詩はツラくてよう訳しませんわー、わはははは)。

「七つあって二つだけなの?」と言われると困ります。実はほかのひとにも「七哀詩」という題名の詩があるのですが、どれもこれも七つは遺っていないんです。

1)もともとは「七諫辞」という文章様式があり、七つの質問をしてそれに答える、というものであった。その文体を引き継いで「哀しい内容」を歌っているので「七哀詩」と呼ばれるようになった。

2)漢代の国立音楽事務所である「楽府」で取り扱った歌曲の中に「七解」というものがあり、それ自体の語源は不明だが、その音曲に乗せて歌うように作られた哀しい歌なので「七哀」という。

3)いやいや、もとは七首作られたのですが、出来がよくないか伝わらなかったかで今は二首しか遺らないのだ。

という三説があるらしいので勉強―――してもしようがないのでニヤニヤしててください。

ところで、みなさんの旅はもう終わっているんですか。

ホームへ
日録目次へ