宰相之体(宰相の体あり)(「分甘余話」)
人品も関わるようですよ。

これだけいれば宰相になれそうなうやつが一人ぐらいいるであろう。今の(以下判読不能)
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北宋の名宰相・呂蒙正のところにお客が来ました。名は伏せますが当時尊貴の人であったという。
献古鏡、云可照二百里。
古鏡を献じて云う、「二百里を照らすべし」と。
古代の(今では失われた技術で造られた)鏡をプレゼントしてくれて、「この鏡、100キロ先まで反射光が届きますぞ」と言った。
すごい鏡だ。人に見せびらかせば威信財となるであろう。転売すればいくらになるであろうか。子孫に伝えれば「おたから」となり、子孫にとって大変有益であろう。
いずれにしろ大変「得」をすることになります。
ところが、呂公は言った、
吾面不過楪子大、安用照二百里。
吾が面は楪子の大いさに過ぎず、いずくんぞ二百里を照らすを用いんや。
「楪」(よう)は、康煕字典によれば「牖」、「まど」のことだそうです。現代のでかい窓ではなく、土壁に明けた四角い穴です。
「わしの顔は小窓ぐらいの大きさしかない。100キロ先を照らしても、何の役に立つというのじゃ」
そして、鏡を突っ返してしまった。
ああー、使い方がわかっていない! オロカだ。実用性ではなく転売時の価値への投資と考えるべきなのに・・・。
ところが、当時の名臣・欧陽脩はこれを聴いて、
得宰相之体。
宰相の体を得たり。
「呂のやつ、どうやらホンモノの宰相になってきたようじゃな」
と言ったという。
宋のひとのいう「体」は「用」と対になって、「体」は「その本質」、「用」は「そのはたらき」という意味になります。
さて、今度は清代。
吾郷一先達家居。
吾が郷に一先達の家居せるあり。
わたしの故郷(山東・新城)に土着している先輩(知識人階級の)がいる。
大地主で金融も営み、なかなかの羽振りであった。
子甥偶言及曹県五色牡丹之奇。請移植之。
子甥たまたま言いて曹県の五色牡丹の奇に及ぶ。これを移植せんことを請えり。
ある日、息子世代の若いのが、隣の曹県の(お寺か富家にある)神秘的な五色のボタンのことを話した。親類たちは揃って、そのボタンを買い取って当家の庭に移植してはどうかと言った。
威信財になりますからね。
主人は、
牡丹佳矣。然不知能結饅頭否。
牡丹佳なり。しかれどもよく饅頭を結ぶや否やを知らず。
「ボタンはすばらしいのう。それはわかるが、それには「まんじゅう」が成るかのう」
と言って、牡丹の入手を断った。現実的な利益を生まないものは要らない、というのである。
此与呂事相類、但其人非耳。
これ、呂の事と相類す、ただその人非なるのみ。
これは呂公の事と同じたぐいである。ただし、その人格はずっと下がってしまうが。
まんじゅうはコワいですね。
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清・王士禎「分甘余話」巻二より。どこが「相類し」ているのでしょうか。この郷里の一先達は「威信財としては使えても実益は無いぞ」と判断しただけで、損をしなかった賢いひとです。しかし呂蒙正はプレゼントでもらうんだし、どうあっても得することを断ったオロカ者ではないですか。これでは金屏風も突き返してしまうでしょう。こんな人に宰相なんて任せられないなあ・・・と、みなさんは思ってたりしているのでは? しかし、そんな呂蒙正でも宰相が務まったんだからだれでもいいや、ということでしょうか。そうか、だから今の(以下判読不能)
なお、16日の調査報告を今日掲載しました。