7月18日 こんだけ暑いと先に行こうかな

打算飯銭(飯銭を打算す)(「禅関策進」)

もうすぐ飯代を清算させられますよ。

確かに、食べた量にみあうような活動はしていません。

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この人の話を肝冷斎の話だと思って聞きなされ。

須将生死二字、貼在額頭上、討取箇分暁。

生死の二字を将いて、額頭上に貼在し、箇の分暁なるを討取すべし。

「生と死」の二文字を持ってきておでこに貼りつけて、それをはっきりとやっつけることじゃ。

如只随群作隊、打哄過日、他時閻老子打算飯銭、莫道我不曾説与爾来。

もしただ、群に随い隊を作し、打哄して日を過ごさば、他時に閻老子の飯銭を打算するに、道うなかれ、我かつて爾に説来せず、とは。

このまま群れの後ろにひっついて一団の中に入り、笑い騒ぎながら日々を過ごして、さて、ある日、閻魔のじじいがこれまでに食った飯代を精算しに来たとする。その時になって、わしがおまえさんに何も教えてくれなかったなどと言わないでくれよ。

そうなってはいけないので、おでこに「生死」と書くのじゃ。うひひ、くすぐったいかも知れんがガマンするのじゃ。

若是做工夫、須要時時検点、刻刻提撕。

是くのごときの工夫を做し、すべからく時時に検点し、刻刻に提撕(ていせい)するを要(もと)む。

こんなふうに努力して、いつもいつも点検し、いつもいつも立ち向かうことが必要なんじゃよ。

点検の内容は、

那裏是得力処、那裏是不得力処、那裏是打失処、那裏是不打失処。

那裏(なり)かこれ力を得たる処、那裏かこれ力を得ざる処、那裏かこれ打失する処、那裏かこれ打失せざる処なるか。

どこで修業の力を着けることができたか。どこで力を得られなかったか。どこで失敗したのだったか、どこで失敗しそうでしなかったか。などを点検しよう。

どうやって立ち向かうのか。

有一等纔上蒲団、便打瞌睡、及至醒来、胡思乱想、纔下蒲団、便説雑話。

一等わずかに蒲団に上れば、すなわち打瞌睡(こうすい)し、醒来に至るに及んでは胡思乱想し、わずかに蒲団より下れば、すなわち雑話を説く有り。

あるやつらは、(座禅用の)座布団に座った瞬間にまぶたを閉じて居眠りしはじめ、目を覚ますと今度はあれこれぼんやりと思いめぐらし、座布団が飛び降りると、ただちに無駄話を始める、というのがいる。

如此弁道、直至弥勒下生、也来得入手。

かくの如く道を弁まうれば、ただに弥勒の下生に至るとも、また来たりて入手するを得んや。

そんなふうに仏道を理解しているようでは、五十六億七千万年後にミロク菩薩が兜率天から降りてこられたときになっても、まだこの世に生まれ変わってきて、どこから(成仏のための)手を下していいかわからないでいるぞ。

須是猛著精彩、提箇話頭、昼参夜参、与他厮捱。不可坐在無事甲裏、又不可蒲団上死坐。

すべからくこれ猛著精彩に、箇の話頭を提(ひっさ)げ、昼に参じ夜に参じ、他(それ)と厮捱(しがい)せよ。坐して無事の甲裏に在るべからず、また蒲団上に死坐すべからず。

とにかく、目立つぐらい猛烈に、いろづくぐらい精魂込めて、考えるべき公案(祖師たちの遺したコトバなど)を引っ提げて、昼に座禅し夜にも座禅して、それと目の前で取っ組み合え。何も変化の無いよろいの中に座っていてはいかんぞ。座布団の上に死んだように座っていてもいかんぞ。

若雑念転闘転多、軽軽放下、下地走一遭。

もし雑念、うたた闘いうたた多ければ、軽々に放下して、下地して走ること一遭せよ。

もしも雑念がたくさん出てきて意識から払いのけることが難しいぐらいなら、すぐに座禅をやめて、地に下りてそこらへんを一周走り回ってこい。

座布団から飛び降りて走り回っている姿はおもしろいですね。
それから、

再上蒲団、開両眼、捏両拳、竪起脊梁、依前提起話頭。便覚清涼、如一鍋沸湯攙一杓冷水相似。

再び蒲団に上り、両眼を開き、両拳を捏(こ)ね、脊梁を竪起し、前に依りて話頭を提起せよ。すなわち清涼なるを覚ゆること、一鍋の沸湯に一杓の冷水を攙(ひ)くに相似たるがごとし。

また座布団の上に座って、今度は両目をしっかり開き、両手の拳をぐっとこねくり回して、背骨を竪に延ばし、先ほどと同じ「公案」を思い出してみよ。すると、清々しく涼やかな気分となること、ナベにぐつぐつと煮え湯が湧いているところへ、さっと一掬いの冷水を入れてやった時によく似ているであろう。

いいことを聞きました。

如此做工夫、定有到家時節。

かくの如くの工夫を做せば、定めて家に到るの時節有らん。

こんなふうな修行を続けていけば、きっと「本当の家郷」に帰り着く時があるであろう。

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宋・五祖法演(1024~1104)「送徒行脚」(徒の行脚を送る)「弟子が行脚に出かけるに当たっての送別の辞」です(明・雲棲袾宏編「禅関策進」所収)。わたくしもみなさんが出かけるに当たって、だいたいこのようなことを申し上げておこうと思うのですが、めんどくさいので法演和尚のコトバを借りました。それではみなさん、行って・・・なに、まだいかない?早く行かないと閻魔のじじいが来ますよ。

では、わしの方が行くか。ちなみに、「禅関策進」という本は、萬暦の禅・浄土双修(座禅と念仏、自力と他力二刀流。最近は「両刀使い」とは言わないんですね)の僧、雲棲袾宏がある日古本屋で表紙もぼろぼろ、捨て値で売っていた本を買ってきた。古代からの禅僧の文章や発言、それから参照すべきお経の本文を誰かが一生懸命集めて綴ったものだった。これに袾宏が補足して、表紙と題名をつけて旅の間持ち歩き、晩年になって後進のために出版したもの、だそうです。古本屋めぐりの先輩として敬意を表せざるを得ない。

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