拖腸血戦(拖腸血戦す)(「清通鑑」)②
昨日の続きです。

年金その他運用しまっせ。
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・・・翌十七日、施琅は諸将を集めた。その場で腹を強く巻いて担架に乗せられて集まってきた藍理を指して、
若非藍理、本軍門豈不危哉。
もし藍理にあらざれば、本軍門あに危うからざらんや。
「もしあれが藍理でなければ、我らが軍は、危険な状態にならなかったわけがなかろう」
と称賛し、その場で帳面を広げさせて、「賞銀二千両」(「功一等」です)と書きこんだ。
その日一日は各艦に井戸水を配給して明日に備えさせ、十八日朝、清軍は艦隊を四分して、四方向から鄭軍を包囲する策を取った。
各艦隊は、「五梅花陣」を取る。
これを考案した参謀長の呉英が諸将に説明したところによれば、
以五船囲敵一船。
五船を以て敵一船を囲む。
我が軍は五隻がセットになって、敵艦一隻を包囲する。
その一船を沈めてしまうまで、「五梅花陣」を崩さないこと。沈めてしまった後の次の敵船を取り囲むこと。
尽其船多之長。
その船の多きの長を尽くさんとなり。
「我が軍の方が船の数は多い。その有利性を最大限に利用する。よろしいな」
たとえ背後から攻めかかられても包囲した艦をまず殲滅せよ、という作戦であった。
藍理堅欲請戦、琅泣止之。
藍理堅く戦いを欲請するも、琅泣きてこれを止めたり。
藍理も強く参戦を希望したが、施琅は涙ながらにこれを押しとどめた。
・・・この日、清軍は火桶・火缶という新兵器も用いて、鄭軍を大いに破った。
これを「澎湖大捷」といい、残兵をまとめて台湾本島に引き上げた鄭国軒は、ルソン転進の案と悩んだ末に、秋、ついに降伏の道を選び、ここの鄭氏政権三十年の幕が降りたのである。
康煕帝は三藩の乱から始まったチャイナ統一戦に勝ち抜いたのだ。
澎湖之捷、藍理紀功第一。其拖腸血戦事、聞名遐遠。
澎湖の捷は、藍理紀功第一なり。その拖腸血戦のこと、聞名遐遠なり。
「拖」(た)は、「ひきずる」。「拖腸血戦」は「腸をひきずって血だらけになって戦った」の意です。
澎湖の大勝利では、藍理がその功績記録では第一とされた。その「腸ひきずり血だらけの戦い」のことと、藍理の名は、はるか遠いところまで鳴り響いた。
もちろん玉座の上にも。
―――それから四年の後のことですが、
藍理服父喪、期満、詣京師。
藍理父喪に服して期満ち、京師に詣づ。
藍理は、父が死んだあとの喪(二年少し)に服し、その期間が終わったので、(郷里の福建から)北京に職探しに出た。
行到趙北口、遇康熙帝出巡、捨馬入梁園回避。
行きて趙北口に至るに、康煕帝の出巡に遇い、馬を捨てて梁園に入りて回避す。
北京城の趙北門まで来たところで、ちょうど康熙帝が郊外巡回をされた帰り道に出会わせてしまい、
「これはいかん」
と馬を捨てて、近くの庭園に逃げ込んだ。
帝はその後ろ姿を見た。
「なんだかでかい男だな」
帝は、侍衛の士を遣わして、氏名を問わしめた。
侍衛に引きずられるように園外に出て来た藍理は、
伏地、臣藍理従福建来者。
地に伏していう「臣、藍理、福建より来たる者なり」と。
地面に土下座して申し上げた。「わたくしめは藍理と申します。福建からまいりましたにござります」
帝は馬上に問うた。
是征澎湖拖腸血戦之藍理否。
これ、征澎湖の拖腸血戦の藍理や否や。
「おまえは、澎湖の戦いで「腸ひきずり血だるまの戦い」の藍理ではないのか」
称是、召其近前、問血戦状、解衣視之、為撫摩傷処、嗟嘆良久。
是を称するに、その近前に召し、血戦の状を問い、衣を解かせてこれを視、ために傷処を撫摩し、嗟嘆やや久し。
「そうでございます」
と答えると、馬の近くまでお召しになり、血だるまの戦いの様子をお聞きになり、「服を脱げ」というので脱いで傷跡をご覧にいれると、突然、帝は馬を降りられ、あろうことか傷跡を撫でたりさすったりしてくださったのである。しばらくの間、ためいきをついたりうめいたりされ、それから去って行かれた。
その後、藍理は、時ならずして陝西に副将の官を与えられ、さらに次つぎと昇進して、最後は福建陸路提督、上司であった施琅と同じ地位まで昇りつめて、康煕五十八年に卒した。
時人以漳浦藍氏多将才、誉之。
時人、漳浦の藍氏に将才多し、とこれを誉む。
当時のひとびとは「漳浦村の藍氏には、代々軍人としてすぐれたひとが多いのじゃ」と称賛した。
或曰、藍理一門英傑、亦近代所希矣。
あるいは曰く、藍理一門の英傑、また近代の希なるところなり、と。
またこうも言った、「藍理の親類一門は英傑ばかりで、これは近代(清のころの)に他にないことである」と。
後者は陳康祺の「郎潜紀聞三筆」の記述である。
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「清通鑑」巻二十二より。みなさんも若いころ頑張って名誉や地位を目指そう!若いころがんばったら年金や退職金で優遇されるぞ。よもや増税の対象にはなりますまい。