丈人泰山(丈人・泰山)(「野客叢書」)
役に立たないことは、もしかしたらエンマさまの前など、予想もしなかった場所で役に立つのかも知れません。

舌抜かれる前に言いたいことは言うとよいぞよ。
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宋の時代のことですが、
今人呼丈人為泰山。
今人、丈人を呼びて泰山と為す。
最近のやつらは、丈人のことを「泰山」と呼ぶそうである。
―――まず、「丈人」とは何ですか?
或者謂泰山有丈人峰故云。
或いは謂う、泰山に丈人峰有り、故に云う、と。
あるひとの説では、「泰山には丈人峰というピークがあるので、丈人といえば泰山、というようになった」という。
―――その「丈人」とは?
唐・段成式「酉陽雑俎」によると、
唐明皇東封、以張説為封禅使。及已、三公下皆転一品。
唐明皇東封せんとし、張説を以て封禅使と為す。已むに及びて、三公下みな一品を転ず。
唐の玄宗皇帝が東のかた泰山で、天下泰平のおめでたい儀式である「封禅」を実施したいと考え、宰相の張説(ちょうえつ)をその準備一切を行う封禅使に任じて、泰山に出かけた。儀式が成功裏に終わったあと、大臣以下役人全員に一階級の進級を下賜した。
ところが、
張説婿鄭鎰官九品、因説遷五品。
張説の婿・鄭鎰は官九品、説に因りて五品を遷す。
張説のムスメ婿の鄭鎰は、一番下の位である九品の役人であったが、張説の功績によって五階級も進められた。
鄭鎰が玄宗皇帝にお目見えしたとき、鷹揚な帝はもうその経緯を忘れていたらしく、
怪而問之。鎰不能対。
怪しみてこれを問う。鎰、対するあたわず。
不思議がって「なんでこんなに階級が進んだのだ?」と質問してきたが、鄭鎰は答えることができなかった。
横から、吏部(人事庁)の黄盤綽が答えた。
泰山之力也。
泰山の力なり。
「泰山封禅記念(で、彼は張説さまのムスメ婿だから特別扱い)ですよ」
と。
「なるほどのう、泰山のおかげ、か」
これで泰山=嫁の親父、となったわけだという。
与前説不同。
前説と同じからず。
これは先ほどの説とは違うな。
―――それでやっとわかりました。つまり、丈人≒泰山というのは嫁のおやじ、すなわち舅のこと、ということなんですね」
そんなの昔から当たり前じゃないか・・・いや、待てよ。
僕観三国志裴松之注、献帝舅車騎董句下、謂古無丈人之名、故謂之舅。
僕、「三国志」裴松之注を観るに、「献帝の舅・車騎将軍董」の句の下に、「いにしえは丈人の名無し、故にこれを舅と謂う」と。
わしは「三国志」に附された裴松之(はい・しょうし)の注を注意深く読んでみた。すると、「後漢の献帝の舅・車騎将軍の董なにがし・・・」というところの下に
「昔は「丈人」という言い方が無かったので、ここでは「舅」と言っている」
という注釈があった。
献帝の在位は189年~220年。
按裴松之宋元嘉時人。呼婦翁為丈人、已見此時。
按ずるに、裴松之は宋・元嘉の時の人なり。婦翁を呼びて「丈人」と為すは、已にこの時に見ゆ。
考えてみるに、裴松之は南朝の宋(劉宋)の元嘉年間(424~454)のひとである。「よめのおやじ」のことを「丈人」と呼ぶのは、このころからの風習なのだ。
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宋・王楙「野客叢書」より。今日も勉強になった。山中に隠れてからはこういう勉強をして日々を過ごしております。「すみませんけど、それ役に立たない知識では・・・」といわれるのはしようがない。もはやわたくし自身が役に立たないのでございますのじゃから。