6月8日 ジャマスルおやじよりはマシ・・・かも

丈人泰山(丈人・泰山)(「野客叢書」)

役に立たないことは、もしかしたらエンマさまの前など、予想もしなかった場所で役に立つのかも知れません。

舌抜かれる前に言いたいことは言うとよいぞよ。

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宋の時代のことですが、

今人呼丈人為泰山。

今人、丈人を呼びて泰山と為す。

最近のやつらは、丈人のことを「泰山」と呼ぶそうである。

―――まず、「丈人」とは何ですか?

或者謂泰山有丈人峰故云。

或いは謂う、泰山に丈人峰有り、故に云う、と。

あるひとの説では、「泰山には丈人峰というピークがあるので、丈人といえば泰山、というようになった」という。

―――その「丈人」とは?

唐・段成式「酉陽雑俎」によると、

唐明皇東封、以張説為封禅使。及已、三公下皆転一品。

唐明皇東封せんとし、張説を以て封禅使と為す。已むに及びて、三公下みな一品を転ず。

唐の玄宗皇帝が東のかた泰山で、天下泰平のおめでたい儀式である「封禅」を実施したいと考え、宰相の張説(ちょうえつ)をその準備一切を行う封禅使に任じて、泰山に出かけた。儀式が成功裏に終わったあと、大臣以下役人全員に一階級の進級を下賜した。

ところが、

張説婿鄭鎰官九品、因説遷五品。

張説の婿・鄭鎰は官九品、説に因りて五品を遷す。

張説のムスメ婿の鄭鎰は、一番下の位である九品の役人であったが、張説の功績によって五階級も進められた。

鄭鎰が玄宗皇帝にお目見えしたとき、鷹揚な帝はもうその経緯を忘れていたらしく、

怪而問之。鎰不能対。

怪しみてこれを問う。鎰、対するあたわず。

不思議がって「なんでこんなに階級が進んだのだ?」と質問してきたが、鄭鎰は答えることができなかった。

横から、吏部(人事庁)の黄盤綽が答えた。

泰山之力也。

泰山の力なり。

「泰山封禅記念(で、彼は張説さまのムスメ婿だから特別扱い)ですよ」

と。

「なるほどのう、泰山のおかげ、か」 

これで泰山=嫁の親父、となったわけだという。

与前説不同。

前説と同じからず。

これは先ほどの説とは違うな。

―――それでやっとわかりました。つまり、丈人≒泰山というのは嫁のおやじ、すなわち舅のこと、ということなんですね」

そんなの昔から当たり前じゃないか・・・いや、待てよ。

僕観三国志裴松之注、献帝舅車騎董句下、謂古無丈人之名、故謂之舅。

僕、「三国志」裴松之注を観るに、「献帝の舅・車騎将軍董」の句の下に、「いにしえは丈人の名無し、故にこれを舅と謂う」と。

わしは「三国志」に附された裴松之(はい・しょうし)の注を注意深く読んでみた。すると、「後漢の献帝の舅・車騎将軍の董なにがし・・・」というところの下に
「昔は「丈人」という言い方が無かったので、ここでは「舅」と言っている」
という注釈があった。

献帝の在位は189年~220年。

按裴松之宋元嘉時人。呼婦翁為丈人、已見此時。

按ずるに、裴松之は宋・元嘉の時の人なり。婦翁を呼びて「丈人」と為すは、已にこの時に見ゆ。

考えてみるに、裴松之は南朝の宋(劉宋)の元嘉年間(424~454)のひとである。「よめのおやじ」のことを「丈人」と呼ぶのは、このころからの風習なのだ。

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宋・王楙「野客叢書」より。今日も勉強になった。山中に隠れてからはこういう勉強をして日々を過ごしております。「すみませんけど、それ役に立たない知識では・・・」といわれるのはしようがない。もはやわたくし自身が役に立たないのでございますのじゃから。

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