同人于野・自天祐之(同人野においてす・天よりこれを佑く)(「周易」)
久しぶりで「周易」を読んでみます。なお、今日は岡本全勝さんに教えてもらった「予定稿」機能を使って、前日に作成したものを6月27日の夜に後悔、ではなくて公開しています。ああ、肝冷斎はこの時、いったいどこにいて、何をしているのであろうか。誰にも知ることはできないのだ。・・・が、大したことはしてないと思いますよ。

よこしまな心がなければ荒野でこそ会うべきですけえのう。
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十三番目は「同人」です。「同人誌」の典故でもあるんですが、「易」での使い方は「人に遇う」という意味だとご理解いただければいいと思います。
卦辞から、
〇同人于野、亨。利渉大川、利君子貞。
人に同ずるに野においてし、亨(とお)る。大川を渉るに利あり、君子の貞なるに利あり。
北宋・程伊川云う、「野は曠野を謂う。遠きと外なるの義を取る」と。
人に会合するのに、(町から離れ、遮蔽物の無い)広々とした原野で会う。だから、うまくいく。大きな川を渡る(ような大事業を行う)のによい時であり。立派な君子が身を正しくしているといいことがある時である。
程氏の注を続けますと、
夫同人者、以天下大同之道、則聖賢大公之心。
「大同」は「易」ではなく、「礼記」礼運篇に出てくる有名なコトバですね。
それ、同人なるものは、天下を以て大同するの道、すなわち聖賢大公の心なり。
さてさて、「易」の「同人」とは、(礼記にいう)天下を「大いに同じくする」という路線のこと、すなわち聖人賢者の大いに公正な精神のことである。
常人之同者、以其私意所合、乃暱比之情耳。
常人の同は、その私意の合するところを以てす、すなわち暱比の情なるのみ。
「暱」は「じつ」。「なじむ」。「昵懇」の「昵」と同じ意味です。
普通の人同士の会合は、自分を大切にしようとする思慮が合意して行われることになる。つまり、なじみ、慣れ親しむキモチだけでやっているわけだ。
それではいかん。
もっと天下のためにやらねばいかんのだ。
故必于野、謂不以暱近情之所私、而于郊野曠遠之地、既不繋所私。乃至公大同之道、無遠不同也、其亨可知。
故に必ず野においてし、暱近の情の私するところを以てせず、郊野曠遠の地においてす、と謂いて、既に私するところに繋がれざるなり。すなわち、至公大同の道は、遠くして同ぜざる無ければ、その亨(とお)るや知るべきなり。
そこで、会合は必ず原野でする。慣れ親しんだキモチで自分たちだけのために会うのではなく、郊外の原野、広く遠いところで会う、と言って、自分たちだけのことから開放するのである。こうして、公正の至り・大いに同じくするの路線にするので、遠いところにいるからといって同じ気持ちにならないことはない。(世界中に人たちが大同するのだ。)うまく行くはずなのは、誰にでもわかるであろう。
さらに、
能与天下大同、是天下皆同之也。天下皆同、何険阻之不可済、何艱危之不可亨。故利渉大川、利君子貞。
よく天下と大同すれば、これ天下みなこれに同ずるなり。天下みな同ずれば、何の険阻の済(わた)るべからざらんや、何の艱危の亨るべからざらんや。故に大川を渉るに利あり、君子の貞に利あるなり。
天下すべてと大いに同じくすることができれば、天下はみなお前さんに共同してくれるのだ。天下がみな共同してくれるなら、いったい通り抜けられない険しい地形があるだろうか、成し遂げられない困難や危険があるだろうか。(ないであろう。)そこで、大きな川を渡るような大事業がうまくいく、立派な人が正しく振る舞えばうまくいく、というのである!!!!
「大同思想」の議論になると、興奮しますね。みなさんは、しませんか。
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十三番目は「大有」の卦です。「大有」はたくさん保有することなので、いいことなのですが、「易」的には「たくさん持ってると段々無くなるぞー、ああどうするのだー」みたいな不安な状態なのです。その途中を乗り切った第六爻、一番上(易は下から数えます)の上九の爻辞、
〇自天祐之、吉無不利。
天よりこれを佑く、吉にして利せざる無し。
天の方から助けてくれるだろう。幸運に恵まれ、うまく行かないことは無い。
をめでたいのでご紹介します。「天佑神助」の「天祐」の典故ですが、上九はもう「大いに保有する」ことからも解放された至福の状態なんです。
「易」の古い注釈で経典と一体視されている「繋辞伝」によれば、
天之所助者順也、人之所助者信也。履信思乎順、又以尚賢也。是以自天祐之、吉無不利也。
天の助くるところは順なり、人の助くるところは信なり。信を履み順を思う、また以て賢を尚ぶなり。これを以て天よりこれを佑け、吉にして利せざる無きなり。
天が助けるのは、(運命に)従順な人である。人々が助けようとするのは、信用のおける人である。信用を履行し、従順に考える、そんな人を助けるということは、賢者を大切にするということでもある。これはまさに、「天が助け、幸運でやれないことはない」という状況であろう。
ということなんです。よかった。
程伊川が補足していう、
君子満而不溢、乃天祐也。
君子は満ちて溢れず、すなわち天祐なり。
立派な人(の精神)がいっぱいに満ちているのに溢れ出ることがない。これこそ天が助けているということであろう。
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今日もみんな天祐あふれる状態だといいですね。予定稿なんで知らんけど。