有所肖可(肖るところ有れば可なり)(「袁中郎随筆」)
実はうまく褒めているんです。

〇〇さん(の現状)にそっくりだ。
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明の文人、石公・袁中郎が「尚徳主人」という人の肖像画を描き、さらにそれに「画賛」を書くことになった。「自画自賛」ですね。
豊姿秀美、頭額魁奇。怡然而笑、充然而腴。
豊姿にして秀美、頭額魁奇。怡然(いぜん)として笑い、充然として腴(ゆ)す。
ゆったりとした姿、賢そうで大柄、額から上の頭部はすごくでかい(←これがカッコいいと思われていた時代です)。にっこりと笑っており、たっぷりと肥っている。
太っている方がカッコいいとも思われていた時代です。
見之者曰、肖尽尚徳主人矣。
これを見る者曰く、尚徳主人に肖(に)尽くせり、と。
この絵を見た者はみんな言った、「尚徳主人どのにすべてそっくりですな」と。
しかし、
余独曰、不然。余与尚徳主人処幾年矣。極知胸襟瀟灑、志業誠実、其与人也有礼、其持己也無失。
余は独り曰く、然らす、と。余は尚徳主人と処ること幾年ならんか。極めて知る、胸襟瀟灑、志業誠実にして、その人とするや礼有り、その己を持するや失無し。
わしだけは言った、「そんなことはない」と。わしは尚徳主人とずいぶん長いこと付き合っている。彼が、胸の中はさっぱりしていて、志すことと仕事とは誠実そのもの、そして人との付き合いには礼義を守り、自分の行動を慎重にして批判されるようなことはこれっぽっちも無い、ということをよく知っているのだ。
その彼が、
及今年来被風雅披拂、転無尽時。然則余終不能尽尚徳主人万一。
今年来に及びて風雅に披拂せられ、うたた尽きるの時無し。然ればすなわち余、ついに尚徳主人の万一をも尽くす能わざるなり。
最近になってからは、詩歌の道に勢力を注ぎ込み、全くやめてしまう気配も無い。そのようなゆとりのある人柄なのだから、わしには、尚徳主人のかっこよさの一万分の一さえ描き尽くせていないだろう。
みなさんが、
而謂此足以尽之、不啻覿面而千里。
而るにこれは以てこれを尽くすに足ると謂うは、ただに覿面するも千里なるのみならざらん。
それなのにこの絵はその人柄まで尽くしきっていると称賛してくれるというのは、「(理解できないことは)目の当たりにしていても千里離れているのと同じだ」ということわざ以上に理解できていないのである。
「天罰覿面」の「覿」(てき)は、会う、目でみる、の意味で、「覿面」は「面と向かって会う」「目の当たり」ということです。
或者曰、特有所肖、可也。
ある者曰く、「特に肖るところ有れば、可なり」と。
あるひとが言った、「ただ一つでも似ているのなら、よろしいでしょう」と。
まあ一つぐらいは似ているでしょう。でもそんなに妥協してしまっていいのかな。
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明・袁宏道「袁中郎随筆」より「尚徳主人真賛」(尚徳主人の真に賛す)。褒められたのに文句を言って、まわりの人を困らせているちょっと変な人の感じが出て味わい深い文章ですが、これがそのまま「賛」になっていて、画は褒めているのかどうかわからないけど、少なくとも描かれている本人は褒めてあります。うまいね。