子弟流蕩(子弟、流蕩す)(「袁氏世範」)
今日は子どもの日でした。「憲法」「みどり」「子ども」と、これでまだ三日しか休んでないのにシアワセです。ずっと休みならどれほどのシアワセになるであろうか。

だんだん大人になっていくのだ。
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子どもの日ですから、子どもの教育について考えてみましょう。
苟無世禄可守、無常産可依、而欲為仰事俯育之計、莫如為儒。
苟しくも世禄の守るべき無く、常産の依るべき無くして、仰いでは事(つか)え俯しては育するの計を為さんと欲すれば、儒と為るに如くは莫(な)し。
もし、代々伝えて守るべき領地とか、先祖伝来で頼りになる田畑とかが無い人が、将来に向かってはシゴトをし、保護下の子どもたちを育てていくことを考えるならば、儒学を学ぶのが一番よろしい。
科挙に合格でもして進士さまになれれば一番いいわけですが、そうでなくても、書院の教授になることもあろうし、そこまで行かなくても代筆や寺子屋で子どもたちに教えたり、いろいろ「つぶし」が効きます。
儒者にならないのなら、
巫医、僧道、農圃、商賈、伎術、凡可以養生而不至于辱先者、皆可為也。
巫医、僧道、農圃、商賈、伎術、およそ以て生を養いて辱先に至らざるべきは、みな為すべきなり。
占い師や医者、僧侶や道士、お百姓、商売人、芸人など、それによって生きていくことができ、ご先祖さまの名を辱めないような仕事は、どれでもよろしい。
どんな職業でも、それで生計が成り立っている限り、先祖に恥ずかしい思いをさせることはない。だが、
子弟之流蕩、至于為乞丐、盗竊、此最辱先之甚。
子弟の流蕩して、乞丐、盗竊を為すに至るは、これ最も辱先の甚だしきなり。
子孫たちが落ちぶれて、乞食や盗人になってしまうのは、ご先祖に恥ずかしい思いをさせる最大の行為である。
然世之不能為儒者、乃不肯為巫医、僧道、農圃、商賈、伎術等事、而甘心為乞丐、盗竊者、深可誅也。
しかれば世の儒と為る能わざるに、すなわち巫医、僧道、農圃、商賈、伎術等の事を為すを肯(がえん)ぜず、乞丐、盗竊と為るに甘心せる者は、深く誅すべきなり。
ということは、逆に、世間の儒者となることもできず、占い師や医者、僧侶や道士、お百姓、商売人、芸人などの仕事をすることもイヤだと言って、乞食や盗人になるのに甘んじている者には、(不孝はなはだしいので)きつく罰を与えなければならない。
―――乞食と盗人にさえならなければいいんですね。
そうです。ただし、言っておきますけど、
凡強顔于貴人之前、而求其所謂応副、折腰于富人之前、而托名于仮貸、游食于寺観、而人指為穿雲子、皆乞丐之流也。
およそ貴人の前に強顔して、そのいわゆる応副を求め、富人の前に折腰して、仮貸に名を托し、寺観に游食して、人の指して「穿雲子」と為すは、みな乞丐の流なり。
だいたい、身分の高い人のところにあつかましく侍り、手先となっておこぼれに与かろうとしたり、財産を持つ人のところにへこへこと現れて、しばらく借りるだけだといってお金を得たり、仏寺や道観(道教のお寺)に寄生して、「雲の中のひと」などと呼ばれて寄付金などを中抜きしたり、―――といったやつらは、みんな乞食の一種なのだ。
居官而掩蔽衆目、盗財入己、居郷而欺凌愚弱、奪其所有、私販官中所禁茶塩酒酤之属、皆竊盗之流也。
官に居りては衆目を掩蔽して、財を盗みて己に入れ、郷に居りては愚弱を欺凌して、その所有を奪い、私(ひそ)かに官中に禁ずるところの茶・塩・酒酤の属を販するは、みな竊盗の流なり。
役所では、世間さまから隠れて私服を肥やし、地域では、愚かな者や立場の弱い者を騙したり脅したりして彼らの所有するものを奪い取り、隠れて公的には禁止されているお茶や塩やお酒といった専売品を売買する、―――といったやつらは、みんな盗人の一種なのだ。
世人有為之而不自愧者、何哉。
世人のこれを為す有りて自ら愧じざる者は、何ぞや。
世間にはこんなことをしていながら、反省の何もない人がいる。どういうことだろうか?
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宋・袁采「袁氏世範」巻二「処己」より。これは、ご先祖から子孫に言い置いた「家訓」です。八百年も前の人の言葉なのに、ほんの30年ぐらい前、バブルもインターネットも知らない時代までは、「なるほどなあ」と通用したかも知れません。しかし、一段と進歩した現代(人新世)では、おカネ儲けにも「論破」の役にも立たない教えなど、子孫たちから、「じゃあじじい、おまえがそのとおりに生きてみろよ」と言われて「むむむ・・・」と黙り込んで終わりでしょう。「西洋の没落」から百年、今や人間そのものが没落した、といえようか。