室如懸罄(室は懸けし罄の如し)(「春秋左氏伝」)
オトナの国からはもう帰りたいなあ。

もうコドモじみた弥縫策ではやっていかそうにもないんでちゅ。涙
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周襄王の十八年(前634)、斉(孝公)が魯に攻め入った。
魯の僖公は大夫・柳下恵の一族・展喜をして
犒師。
師を犒(ねぎら)わしむ。
出征してきている斉公の見舞いに行かせた。
もちろん、文句を言いに行かせたんです。
斉公未入境、展喜従之。
斉公いまだ境に入らざるに、展喜これに従う。
斉公がまだ魯の境内に入らないうちに、展喜は公の宿所に到着して面会した。
そして申し上げた。
寡君聞君親挙玉趾、将辱於敝邑、使下臣犒執事。
寡君、君が親ずから玉趾を挙げ、まさに敝邑を辱(かたじ)けなからんとさるるを聞きて、下臣をして執事を犒(ねぎら)わしむ。
うちの貧乏な君主(魯公)は、お殿様(斉公)がおんみずから玉のごとき御足を挙げて、今やわたしどもの汚い町村をお通りいただけそうだとお聞きしまして、部下のわたしを遣わして、(お殿様の部下である)執事さまをお見舞いしてまいれということでございます。
諸侯の臣下が諸侯と対等にお見舞いするわけにはいきませんので、臣下の展喜は斉の臣下の誰かの見舞いに来たということにして、斉公のところにご機嫌伺いに来ているわけです。
斉侯はおっしゃった、
魯人恐乎。
魯ひと恐るるか。
「魯のやつらはびびっておるか?」
展喜は言った、
小人恐矣、君子則否。
小人恐るるなり、君子は則ち否。
「ちっぽけなやつらはびびっておりますが、立派な君子はびびっておりません」
「ほお?」
斉侯は言った、
室如懸罄、野無青草。何恃而不恐。
室は懸けし罄の如く、野には青草無し。何を恃みて恐れざる。
「魯の国の家々は、(上からブーメラン型の板を吊るして叩く楽器である)罄(けい)が吊るしてあるように、垂れ下がった軒の下には何もない、すっからかんだ。原野には刈り取って牛馬のエサにする青草さえ無い。いったい何を頼りにして「びびってなんかいない」のかね」
周囲のやつらも薄ら笑いを浮かべ、あるいは「おほほ」「うひひ」と忍び笑いもあったかも知れません。
展喜は言った、
恃先王之命。
先王の命を恃むなり。
「古代の周王さまのご命令を頼りにしております」
「ほお?」「おほほ」「うひひ」「うへへへ」
昔周公大公股肱周室、夾輔成王。成王労之、而賜之盟。
昔、周公と大公、周室を股肱し、成王を挟み輔く。成王これを労いて、これに盟を賜えり。
むかしむかし、周の国が出来たばかりの十一世紀後半のころ、我が魯の初代・周公と、お殿様のご先祖の大公さまは、周の王室を左右の足のように支え、幼い成王さまを挟んで、両側から輔佐されました。成王はこの功績をおねぎらいになって、わたしたちの先祖にでかい「盟盤」(誓いの言葉を刻んだ青銅の皿)を下さったではありませんか。
曰、世世子孫無相害也。載在盟府、大師職之。
曰く、世世子孫相害する無かれ、と。載せて盟府に在りて、大師これを職とす。
その銘に曰く、「これから代々、おまえたちの子孫が互いに攻撃しあわないように」と。
この盟は周王室の「誓いの文書の蔵」に蔵せられてあり、その管理は大師(最高記録官・ナショナルアーキビスト)の仕事でございます。
桓公是以糾合諸侯而謀其不協。弥縫其闕、而匡救其災、昭旧職也。
桓公これを以て諸侯を糾合し、その協を謀る。その闕くるを弥縫して、その災いを匡救し、旧職を昭らかにせり。
(孝公さまの先代の)桓公さまはこの盟約をもとに天下の諸侯を会合に集めて、協同でやっていこうと誓い合った。欠けてしまったところは縫い合わせ、災害を受けた地域は救済し、これまでの各諸侯の専門技術を大切にしていこう、ということにしました。
及君即位、諸侯之望曰、其率桓之功。我敝邑用不敢保聚。
君の即位するに及びて、諸侯これを望みて曰く、それ桓の功に率わん、と。我が敝邑用って敢えて保聚せざるなり。
殿さまが即位なさるに及んで、各地の諸侯たちはそのお姿を眺めながらおっしゃったものです。
「この人はおやじの桓公の功績に続くひとだなあ」
と。そこで、わたしども魯の汚い町村も、あえて軍隊を集めて守ろうなどとはしていないのです。
豈其嗣世九年、而棄命、廃職。其若先君何。君必不然、恃是以不恐。
あにその世を嗣ぐこと九年にして命を棄て、職を廃す。それ先君を若何(いかん)せん。君必ず然りとせず、これを恃みて恐れざるなり。
どうして先代の位を継いで九年したところで、古代の周王からの命令を放り出し、(諸侯たちをまとめていくという)ご自分の国の専門をお止めになる、ということがございましょう。そんなことをしたら先代さまはどうなりますか。だから、お殿様はそうはされますまい。・・・ということを頼みにして、びびっていないのでございます」
「なるほどね」
斉侯乃還。
斉侯、すなわち還る。
これを聴いて、斉公はただちに軍を引き上げて帰っていった。
現在の秩序を壊さない方がいい、と認判断したのでしょう。現代の進んだ社会では「なんでもいいから改革!」を掲げずには有権者に支持されるはずはありませんが、まだ紀元前七世紀なのでそうでもなかったのだと思われます。
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「春秋左氏伝」僖公二十六年(前634)条より。文書の蔵に遺っているといいのですが、ちゃんと保管されているかなあ・・・。
それにしても、「懸罄」ぶらさげられたブーメランのように空っぽの国、とは譬喩がすぐにはわかりづらいだけに切実な譬えではありませんか。「弥縫」もチェックしといてね。