論陋于是(論、ここに陋たり)(「風俗通」)
古代のひとにも科学的なひとはいたらしい。

夏も近づく玉手箱。今年こそは開けてみる?
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「漢書」王吉伝(列伝第四十二)にこうあります。
王吉、字・子陽は、山東・琅邪のひと、
少時好学、兼通五経。
少時学を好み、兼ねて五経に通ず。
若いころから学問を好み、書経・詩経・易経・春秋・礼の五つの儒学経典を理解していた。
宣帝(在位前74~前49)の時に益州刺史、博士諫大夫に進んだが、
居位清廉。然好車馬衣服、自奉養極為鮮明。
位に居りては清廉なり。然れども車馬衣服をこのみ、自ら奉養して極めて鮮明たり。
官位にある間、清廉であった。しかし、馬車や騎馬、衣服をかっこよくするのを好み、自分では極めて贅沢な生活をしていた。
ところが、
及遷徙去処、所載不過嚢衣、不蓄積余財。去位家居、亦布衣蔬食。
遷徙して去処するに及ぶに、載するところ嚢衣に過ぎず、余財を蓄積せず。位を去りて家に居るに、また布衣にして蔬食(そし)す。
人事異動があって引っ越しするときになると、(車に乗せる荷物は)袋に詰め込んだ衣服ぐらいで、それ以外の財産を蓄えていなかった。官位を去って実家に帰った時には、また質素な布の服を着、野菜中心の粗末な食事をしていた。
時人服其廉、而怪其奢、故俗伝王吉能作黄金。
時人、その廉に服するも、その奢を怪しみ、故に俗に「王吉よく黄金を作す」と伝う。
同時代人は、彼の清廉には感心したが、それなのに、どうして贅沢ができるのか不思議がり、このためひとびとは今でも「王吉という人は黄金を作り出すことができたのだ。(だから休職中は質素でも、官職に就いた時には贅沢ができたのだ)」と言い伝えている。
・・・・わたくし応劭、謹んで按ずるに、秦の始皇帝は不老長生を得て東海の蓬莱山に行くことを夢見ていたが、ついに沙丘で亡くなった。漢の武帝は文成や五利といった道士の言を疑わず、神仙になる方法を探求したが、行き詰ってしまい、彼らに死を賜った。淮南王・劉安は黄金や白銀を作り出す術を得ようとしたが、死刑になってしまった。劉向は劉安の遺した書物からその術に関する書物を集めて成帝に献上したが、そのとおりにしても金銀はできなかったために獄に下された。
秦漢以天子之貴、四海之富、淮南竭一国之貢税、然不能有成者、夫物之変化固自有極。
秦漢は天子の貴、四海の富を以てし、淮南は一国の貢税を竭くす、しかれども成す有る能わざるは、それ、物の変化に固より自ずから極まり有ればなり。
上記の例のうち、秦の始皇帝、漢の武帝・成帝は天下を治める皇帝の身分、世界中の経済力と使ったのです。淮南王は淮南国の税金をすべて使ったのです。それでも思った結果が得られなかった。それは何故かというに、モノの変化には行きつくところがあって、そこからはもう変化しないからなのだ。
ところが、
王吉何人、独能乎哉。語曰、金不可作、世不可度。王吉居官食禄、雖為鮮明、車馬衣服、亦能幾所、何足怪之。
王吉なにびとぞ、独りよくせんか。語に曰く、「金は作すべからず、世は度すべからず」と。王吉の居官食禄するに、鮮明を為すといえども、車馬衣服またよく幾所ぞ、何ぞこれを怪しむに足らん。
王吉はどんなすごい財力があって、ただ彼だけが(黄金を産出するということが)できたのだろうか。識者たちは「黄金が作れるなんてことはない、世間のひとを救済するなんてできるはずがない」と言う。王吉は官職にあって給料をもらっている時には、贅沢でかっこいい格好をしていたとしても、馬車や騎馬、着る物などいったいどれほどの数が必要であったろうか。(大したことはなかったはずだ。)不思議でもなんでもないではないか。
乃伝俗説、班固之論陋于是矣。
すなわち俗説を伝う、班固の論、ここに陋たり。
それなのに民間で伝えられていることを歴史書に書くとは、「漢書」の編者である班固の議論はこのようにおろかなものなのである。
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後漢・応劭「風俗通義」正失第二より。モノの変化には行きつくところがあって、そこからはもう変化しないのだ、と、古代人にまともな「化学」みたいに反論されてしまいました。悔しい。あ、でも、そうか、我が国の「憲法」ももはや行きつくところまで行ってるので変化することがないんだ。「シン・憲法」なのです。・・・なのかも知れません。