5月24日 年寄は日常的に疲れやすい

奪他人杯(他人の杯を奪う)(「焚書」)

布団の上に十センチぐらいの小さい人が現れて「こんにちわー、わわわわーん」と言ったりします・・・ああ、まぼろしか。疲れているみたいです。すかっとするような名文を読んでみるか。

どうしようもない私どもも、おしゃかさまが何とかしてくださる・・・かも知れない。

・・・・・・・・・・・・・・・・

夫世之真能文者、一旦見景生情、触目興嘆、奪他人之酒杯、澆自己之壘塊、訴心中之不平、感数奇於千歳。

それ、世の真の能文者は、一旦景を見て情けを生じ、触目して嘆きを興せば、他人の酒杯を奪いて自己の壘塊(るいかい)に澆ぎて、心中の不平を訴え、千歳において数奇に感ず。

おれには本当の表現能力があるのだ!と思っている人は、ある日、景色を見て感情を生じ、目に触れたものに感嘆すると、突然横にいた人の酒杯を奪い取って、自分の腹の中にあるぐりぐりとした塊りに注ぎこんで(それを溶かし)、心の中の不平を吐き出したり、千年の運命の不思議に感動したりするんじゃ!

「なにをするんじゃ!」

という、突然酒杯を奪われたひとの怒声が聞こえてきそうです。

既已噴玉唾珠、昭回雲漢、為章於天矣。遂亦自負、発狂大叫、流涕慟哭、不能自止。

既にして玉唾珠を噴き、雲漢を昭回し、天に章を為す。遂にまた自負し、発狂大叫して、流涕慟哭、自ら止むあたわず。

そうした後、真珠のようなツバキを飛ばして、天の川を照らし出し、大空にその文章を書きつける! 書き終わると大威張りして、狂ったような騒ぎ叫びだし、涙とはなみずを流して声を挙げて泣き出して、自分では止めることもできないのだ。

「なんだ、こいつ」

「つまみ出せ」

とその場はつまみ出され、

「セミナーなどで自己啓発して反省してくださいよ、ふふん」

「欧米などに留学して新自由主義を学んでから来ることね、おほほほ」

とさげすまれるわけですが、その書いた文章は、あまりに激しく、

寧使見者聞者切歯咬牙、欲殺欲割、而終不忍蔵於名山、投之水火。

むしろ見者聞者をして切歯し咬牙し、殺さんとし割せんとし、而してついに名山に蔵をするに忍びず、これを水火に投ぜんとす。

読んだ者、聞いた者をして奥歯をぎりぎりいわせ前歯を噛みしめて、「殺してやる、切り裂いているやる」と思わせ、ついには霊山の中に隠しておくこともガマンならなくなって、火に投じて焚こうか、水に捨てて流そうかと思うのだ。

「どれどれ、わしにも見せてみなされ」

それがこの「琵琶記」という戯曲である。元末明初の高明なる人の著。四幕からなる劇台本で、蔡なんとかと趙なんとか娘の出会いと別離と再会の物語じゃ。うほほ。えっちな記述とかは別にありませんが、女の子は可憐である。

余覧斯記、想見其為人、当其時必有大不得意於君臣朋友之間者、故借夫婦離合因縁以発其端。

余、この記を覧、その人となりを想見し、その時に当たりては必ず大いに君臣朋友の間に意を得ざる者有りて、故に夫婦離合因縁を借りて以てその端を発せりとす。

わしはその文章を読んで、書いたやつのひととなりを想像してみる。おそらく当時、絶対、君主や上司や同僚や友人たちの間でうまくいかないことが多くて、そのために、男女の間の別離や会合の運命を描いて自分の不満な思いの一部を吐露したのであろう。

さて―――

北宋の安楽窩先生・邵雍の詩に曰う、

唐虞揖譲三杯酒、湯武征誅一局棋。

唐虞の揖譲するも三杯の酒、湯武の征誅するも一局の棋。

超古代、堯帝唐氏から舜帝虞氏に王位を譲ったとき、その儀式は三杯の酒のうちに済んだ。

古代、殷の湯王が夏を滅ぼし、周の武王が殷を滅ぼすために征伐と誅殺を行ったとき、まるで一局の碁のようなものであった。

と。

夫征誅揖譲何等也、而以一杯一局覩之、至眇小矣。

それ、征誅揖譲は何等ぞや、一杯一局を以て、至りて眇小にこれを覩る。

ほうほう、征伐や誅殺、国譲りの儀礼などをどういうわけか、一杯の酒、一局の囲碁に託して考察するとは、たいへんちっぽけなものに落とし込んだものである。

嗚呼。今古豪傑、大抵皆然。小中見大、大中見小、挙一毛端建宝王刹、坐微塵裏転大法輪。

嗚呼、今古の豪傑、大抵みな然り。小中に大を見、大中に小を見ること、一毛の端を挙げて宝王の刹を建て、微塵の裏に坐して大法輪を転ずるがごとし。

おお! いにしえより今に至るまで、豪傑たちはたいていみんなこうなのじゃ。小さいものの中に大きなものを見、大きなものの中にちっぽけなものを見る。一本の毛の先に天下を統一した王さまの都を造り、微小な塵の一つに座ったままで宇宙を動かす法輪を回すなど。

此自至理、非干戯論。倘爾不信、中庭月下、水落秋空、寂寞書斎、独自無頼、試取琴心一弾再鼓。

これ自ずから至理、戯論(けろん)に干するにあらず。もし爾信じざれば、中庭の月下、水落つるの秋空、寂寞の書斎、独自(ひとり)無頼のときに、試みに琴心を取りて一弾再鼓せよ。

これは、本当の真理である。決してふざけた議論をしているのではない。もしおまえさんが信じられないならば、中庭に月の覗いた晩、秋の澄み切った夜空、誰もいない書斎で、ただ一人、さびしくてしようがないときに、試しに琴を取り出して、「琵琶記」の中の歌を、ひと弾き、ふた弾きしてみなされ。

其無尽蔵不可思議、工巧固可思也。

その無尽蔵不可思議、工巧なることもとより思うべきなり。

その歌の中から無尽蔵にして不可思議なる何かが湧きだす。たくみにしてみごと、どうしても考えざるを得ないであろう。

嗚呼。若彼作者、吾安能見之矣。

嗚呼、かの作者のごときは、吾いずくんぞよくこれを見んや。

ああ。だが、わしはこれを作ったやつと、会ったこともないのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・

明・李贄「焚書」巻三「雑説」より。明末の知識人はこんな文章読んでニヤニヤしながら「怪しからんですなあ、ひっひっひ」「男女のそういう話を称賛なされるとはなあ、くっくっく」「儒学ではありませんなあ、ひっひっひ」と言い合っていたそうなんです。表面は朱子学で性根は腐ってはったんやろなあ。ひるがえってみなさんは新自由主義だから大丈夫?
ちなみにこのような晩明のロマンチシズムが清代を経て日本に入り、明治の与謝野鉄幹とか北村透谷の脳みそを作っているのが、少しはおわかりいただけますでしょうか。みなさんは大丈夫みたいですけど。

ホームへ