5月22日 何につけても悲しいなあ

山水喩愁(山水愁いに喩う)(「鶴林玉露」)

廣島サミットで、日本外交がたいへんうまくいったといわれています。よかった。それにつけても悲しいなあ。

やった、シリコダマを手に入れた!というよろこびの瞬間にも、もう悲しみは忍び寄っている。

・・・・・・・・・・・・・・・・

山と水はどちらが悲しいかなあ。

有以山喩愁者。

山を以て愁いに喩うる者有り。

山を、悲しみの譬えとする人がおります。

盛唐の杜甫(712~770)いう、

憂端如山来。

憂端、山の如く来たれり。

憂愁のはじまりが、山のように迫ってきた。

中唐の趙嘏(844進士)いう、

夕陽楼上山重畳、未抵春愁一倍多。

夕陽楼上、山重畳するも、いまだ抵(あた)らず、春愁の一倍多きに。

夕陽楼の上から見ると、山なみが幾重にも重なっている。

それでも、春の悲しみが倍増するのには対抗できない。

それほど悲しみは深いのだ・・・。

これらである。

有以水喩愁者。

水を以て愁いに喩うる者有り。

川や海を、憂愁の譬えとする人もおります。

中唐の李群玉(808~862)いう、

請量東海水、看取浅深愁。

請う、東海の水を量り、浅深の愁いを看取せよ。

東シナ海の水を量ってみて、悲しみが浅いとか深いとか調べてみてください。

海の水が量れるはずがなかろう。それほどわたしの悲しみは深いのだ・・・。

五代・南唐の後主・李煜(937~978)がいう、

問君都有幾多愁、恰似一江春水向東流。

君に問う、すべて幾多の愁い有りて、恰も似たる、一江の春水の東に向かいて流るるに。

教えておくれ、一体どれほどの悲しみがあって、

春の長江の水が東に向かってひとすじに流れていくような、大いなる河となるのか。

北宋の秦少游(1049~1100)いう、

落紅万点愁如海。

落紅万点、愁いは海のごとし。

紅の花が散り落ちて一万片、おれの悲しみは海のようだ。

どうやら、近年は水の方が悲しみに喩えられることが多いようである。

ところで、賀方回(1052~1125)がいう、

試問閑愁知幾許、一川烟草、満城風絮、梅子黄時雨。

試みに問う、閑愁のいくばくなるかを知るや、一川の烟草、満城の風絮、梅子黄なる時の雨。

さて、どれが一番そぞろに悲しいか答えてみてください。

川のほとり、見渡すばかりの靄の中の草。(初春)

町中に飛ぶ、柳のわたぼうし。(晩春)

ウメの実が黄色く色づくころの雨。(初夏)

これは、

蓋以三者比之愁多也、尤為新奇。兼興中有比、意味更長。

蓋し三者を以て愁いの多きに比し、尤も新奇なり。興中に兼ねて比有りて、意味さらに長。

つまりは三つのものを悲しみの深さに譬えており、はなはだ新規な味わいを出している。連想法の中に譬喩が重複していて、意味するところはこれまでにない深さである。

・・・・・・・・・・・・・・・・

南宋・羅大経「鶴林玉露」乙編巻一より。数が多ければいいということはないと思いますよ。ともあれ、どんな季節にもどんな景色にも憂いと悲しみはあり、大人は逃れることができないということがわかります。

なお、上の李群玉の詩はさらに

愁窮重于山、終年圧人頭。

愁い窮まりて山よりも重く、終年、人頭を壓す。

悲しみはさらに極まって山より重くなってきて、一年中、おれの頭を押さえ込んでいるんだ。(「‘雨夜、長官に呈す」

と続いて、山を以て喩える方の例にもなるのですが、羅大経はそれには触れておりません。めんどくさかったのでしょう。

ホームへ