下諂上愚(下は諂い上は愚なり)(「鶴林玉露」)
こんなふうになったら、30年ぐらいは失われるでしょう。

このひとたちは結果だけ見ると大丈夫かも知れませんが・・・。いや、怪しいか。
・・・・・・・・・・・・・・・
東晋の元興二年(403)冬十二月、
桓玄竄位、登御床、地忽陥。
桓玄位を竄‘(ぬす)み、御床に登るに、地忽ち陥る。
長江中流域を根拠とする桓玄は、東晋の安帝から禅譲を受けて帝位につき、玉座の長椅子に座ったところ―――。がたがたと床が抜けてしまった。
群臣失色。
群臣色を失う。
臣下たちはみな真っ青になった。
その時、殷仲文が進み出て言った。
良由聖徳深厚、地不能載。
良(まこと)に、聖徳の深厚なるに由りて、地も載する能わざるなり。
「本当に、陛下の聖なる御徳が深く厚くございますので、その重厚さに大地も載せることができなかったのでございますなあ」
「わははは、よう言うてのけた」
桓玄大いに喜び、群臣たちもみなにこやかに笑った。
よかったです。
なお、桓玄さまは、帝位について、国号を楚、年号を永始と定めた。これを桓楚の武悼帝と申しますが、翌年三月には西府軍団を率いる劉裕(後の宋・武帝)に討たれて自殺なさったのでございます。
また、五胡十六国の一、黄河流域を支配した南燕の国の王・慕容超(ぼよう・ちょう、在位405~410)さまの時、
汝水不冰、燕王悪之。
汝水冰らず、燕王これを悪む。
毎年結氷する汝水の水が結氷しなかった。王の不徳のための異常気象かも知れないので、燕王はこのことで大変不機嫌になられた。
その時、李超が進み出て言った、
良由逼帯京城、近日月也。
良(まことに)に、京城に逼帯せるに由りて、日月に近きなり。
「本当に、わが国の都の周りをぐるりと取り巻いておりますので、太陽や月(のごとき王さま)に近づき過ぎて、今年は結氷しないのでございますなあ」
「わははは、よう言うてのけた」
燕王亦大悦。
燕王もまた大いに悦べり。
燕王・慕容超も、こんなこと言われておお喜びであった。
そのあと数年ならずして亡国、慕容超も殺された。
ああ。これらは、
下諂、上愚、可発一笑。
下は諂い、上は愚、一笑を発すべし。
下の者は阿諛追従、上の者は愚昧、これで笑わずに何で笑うのか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
宋・羅大経「鶴林玉露」乙編巻五より。あれ? みなさん、なんで笑ってられるんですか。笑われる方では・・・。
今月もまたキモチを新たにしてやっていきましょう。