赤貧寒酸(赤貧と寒酸)(「土風録」)
総理によると、30年振りに経済に希望が見えているそうです。うれしいなー。だが、ちょっと待てよ。30年前、わしはシアワセだったのだろうか。

寒い方がシアワセだったりするだるまー。
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貧窮曰赤貧。
貧窮まれる、赤貧と曰う。
ひどく貧乏なのを「赤貧」という。
宋・葉廷桂「海録砕事」によれば、
古人謂空尽無物曰赤、如赤地千里。
古人、空尽にして物無きを謂いて「赤」と曰う、「赤地千里」の如し。
むかしのひとは、空っぽで何も無いことを「赤」と言ったのだ。「赤地(荒れ果てた土地)が千里にひろがる」というのなど、そうだ。
南北朝時代を記録した「南史」に
其家赤貧。
その家、赤貧なり。
その家は、ひどい貧乏であった。
というのが、「赤貧」の語のはじめであるが、要するに「何も持たないほどの貧しさ」を「赤貧」と言ったのである。
また、もと人を罵るのに「寒畯」(かんしゅん)というコトバがあった。「畯」(しゅん)は田の耕作の指導をする「田長(たおさ)」を指す文字だが、「田舎者」の意になって、「寒」に貧しいの意があることから、「貧しい田舎者」をいう。
南宋の范石湖の詩にいう、
洗浄書生気味酸。
洗浄す、書生の気味の酸なるを。
書生時代の雰囲気が染みついているのを洗い流そう。
と。
「畯」がこの「酸」(しみつく)に替わったのが、「寒酸」で、身にしむような貧しさを言う。
俗詆腐儒為寒酸、本此。
俗に腐儒を詆りて「寒酸」と為すはこれに本づくなり。
一般に、貧しい腐れ儒者を軽蔑して、「寒酸」(貧乏しみつき)というのは、これが根拠である。
なお、貧乏な書生のことを「措大」(そだい)と言うが、
目醋曰秀才。皆以酸字生出、或作措大、言能挙措大事成。
醋(さく)を目して「秀才」を曰う。皆「酸」字を以て生出し、或いは「措大」と作して能く大事を挙措して成すを言うなり。
「措大」の「措」は「醋=酢」のことで、「酢」(す)のように酸っぱい生活をしている無職の読書人(「秀才」)、という意味であり、「寒酸」とともにどちらも「酸っぱい」がもとになって出来た言葉である。ただし、「措大」の方は、(将来)なにかでかいことを持ち上げる(「措」は「置く」の意)かも知れない、という意味があるのだ。
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清・顧張思「土風録」巻九より。だとすると、「措大」は現在の経済事情のように「希望が見える」ことばということになりますが、「錯大」(間違いばかりのでかいやつ)のことだ、という説もあってそちらの方が貧乏書生の実態に近かったかも知れません。
実態といいますと、5月の食品の対前年比物価上昇率が30パーセント強、という統計が出たそうです。家賃や燃料費はそんなに上がっていない、ので全体の物価上昇率はもっと低い、人はパン(食費)のみによって生きるにあらず、食費を削って株式投資したまえ、とおっしゃりたいかも知れませんが、賃金がこんなにあがってるはずないし、どこに行っちゃってるんですかね。ここではあるまい?