恨至不速(至ることの速からざるを恨む)(「清通鑑」)
「早く来ないかなあ」
「梅雨明けのことですか?」
「ふふふ、甘いな・・・」

うそつきは三文の得?
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清の順治十五年(1658)はすなわち南明の永暦十二年に当たりますが、既に雲南の奥地・安龍に逼塞した南明政権の息の根を止めようと、三月、清の大軍は三方に別れて進軍を開始した。
総指揮官の洪承疇は、三つの部隊が合流する前に、南明軍によって各個に撃破されることを恐れていたというのですが、南明軍は動こうとしなかった。
政戦の権力を握る李定国が、
信善幻術之奸人賈自明能求上帝助兵言、按兵不動。
幻術を善くするの奸人・賈自明の、よく上帝に助兵を求むるとの言を信じ、兵を按じて動かず。
巧妙な幻術を行う謎の人・賈自明なる者が、「わたしは天上の帝に助勢の神軍の派遣を依頼することができますぞ」というコトバを信じてしまい、助勢が到着するまで、軍を動かさないようにしていたのである。
当辺警告急、或請出師日期、輒云有待。
当辺の警告急にして或いは出師の日期を請うあるも、すなわち云う、「待つこと有り」と。
前線から警戒警報が次々と届き、出征の日取りを決めるように請求する人があっても、いつも「待っているものがありますので」と言っていた。
然、賈之言久而不験。
然るに、賈の言久しくして験せず。
しかし、賈の言葉はいつまでたっても実現しないのだ。
それはそうでしょう。
六月になって、
李定国方怒而斬之。
李定国、まさに怒りてこれを斬る。
李定国は、とうとう怒って、賈を斬り殺した。
そして、
倉促備戦、日役万夫、計程厳限。
倉促して戦に備えんとし、日に万夫を役して、計程、限を厳にす。
今度は大急ぎで戦いに備えようとして、一日に一万人の労働者を連行して、工事を行った。スケジュールをたいへんきつくした上、達成を厳しく取り締まった。
時値天雨、泥深数尺、挽負不前、輒鞭之至死、塡溝壑者甚衆。
時に天の雨ふるに値(あ)い、泥深きこと数尺、挽負するも前(すす)まず、すなわちこれを鞭うちて死に至らしめ、溝壑を塡むるもの甚だ衆(おお)し。
ちょうどこの時、天候は雨続きで、地面は数尺の深さに至るまで泥濘と化してしまい、(資材を)引いても背負っても全く動かなくなってしまったが、監督する者たちは労働者を鞭うってシゴトをさせ、ついに濠や溝に死体となって転がってしまったものがたいへん多くなった。
冤号載道、至有恨清師之至不速者。
冤号道を載し、清師の至ることの速やかならざるを恨む者有るに至る。
不道に怒る叫びが道に満ち溢れ、「清の軍はどうして早く来てくれないのか」と清の軍隊を恨む、という声まで出るに至った。
七月、李定国はようやく軍を進めた。しかし、三路の大軍はすでに貴州に終結しつつあったのである・・・。
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「清通鑑」順治十五年条より。あと数年で亡ぶのでガマンしてください。
わたしも若いころは毎日毎日(比喩的とはいえ)鞭打たれ、周りの同僚たちが濠や溝に斃れていく日々、「ああ早く世界が滅んでくれないものか、アンゴルモアの大王よ来たれ!」と夜夜に禱り求めていたものであった・・・が、今では保守化して毎日「まあいいか、みなさんがんばって」という気持ちでいます。老害だね。
なお、この話は、「尚書・仲虺之誥」(仲虺の布告)に出てくる、
殷の湯王が
東征西夷怨、南征北狄怨。
東征すれば西夷怨み、南征すれば北狄怨む。
東を征服すれば西の異民族が怨み、南を征服すれば北の異民族が怨んだ。
なぜというに、
曰、奚独後予。
曰く、奚(なん)ぞひとり予を後にするや、と。
彼らは言うのだ、「どうしてわしらだけ後回しになるのですか」と。
早く征伐してくだされや。
攸徂之民、室家相慶。曰、徯予后、后来其蘇。
徂くところの民、室家相慶こぶ。曰く、予の后(きみ)を徯(ま)つに、后来りてそれ蘇れり、と。
湯王が征伐した地の人民たちは、家ごとに喜んで語り合った。
「わしらの王さまを待っていた。王さまが来たので、わしらは生き返った」
というお話を踏まえているようです。
ところで、「孟子」の梁恵王下篇に曰く、
(湯、)東面而征西夷怨、南面而征北狄怨。曰、奚為後我。民望之若大旱之望雲霓也。
(湯の)東面して征すれば西夷怨み、南面して征すれば北狄怨む。曰く、奚ぞ我を後と為すや、と。民のこれを望むこと、大旱の雲霓を望むがごときなり。
湯王が東を向いて征服すると西の異民族が怨んだ。南を向いて征服すると北の異民族が怨んだ。「どうしてわしらを後にするんですじゃ」というのである。人民たちが湯王を眺めて希望を持つことは、日照り続きの空に雲や虹を眺めて希望を持つのと同じであった。
湯王が攻めてきても、
帰市者不止、耕者不変、誅其君而弔其民、若時雨降、民大悦。書曰、徯我后、后来其蘇。
市に帰する者は止まらず、耕する者は変わらず、その君を誅してその民を弔うこと、時雨の降るがごとく、民大いに悦ぶ。書に曰く、我が后を徯(ま)つ、后来たらばそれ蘇らん、と。
市場に出かける者はその足を止めない。耕作する者はその行動を変えない。(悪い)君主はコロしてしまい、住民たちには(悪い君主でしたがコロされてしまってみなさん可哀そうだなあ、と)同情の言葉をかけてくれるのだ。まるで、必要な時に雨が降るようなものだから、人民たちは大いに喜んだ。
「尚書」に書いてあるとおり、
「わしらの王さまを待っていた。王さまが来たので、わしらは生き返った」
だったのである。
この「孟子」の記述に、朱晦庵が注していう、
与今書文亦小異。
今の書の文とはまた小異あり。
現在見る「尚書」(仲虺の布告)とは少しだけ違っていますね。
と。ようく見ると、「予」と「我」が違っているんです。
そうか、「孟子」が見ていた「尚書」は少しだけ違っていたんだなあ。紀元前のことだから少しは違っているのだろう。そのわずかな違いがわかるのです。さすがだ、チャイナの文明の重厚さを感じるなあ・・・
―――と、思っていたひとも多かったのですが、それは甘い夢だったことを、清の考証学者たちが見破ってしまいました。この「仲虺之誥」は、「偽古文尚書」といわれるグループに属し、漢代に「孟子」や「左氏伝」などの記述をうまくつなぎ合わせて作られたものでした。はるか昔には孟子が見た「尚書」の該当文書があったのでしょうが、その後それは散逸してしまい、「今の書の文」の方がニセモノだったのです。ウソと権威で塗り重ねて、何が真実かわからない、さすがだ、チャイナの文明の重厚さを感じるなあ・・・。