5月10日 童子なので考えないとわからない

童子何知(童子、何をか知る)(「春秋左氏伝」)

かなり考えていたら、わかってきまちた。要するに、税金を上げてそのおカネで、コドモ(虐待されている子、貧困の子、やんぐけあらーとか含む)が大切にされる・・・のだと思っていまちたが、そうではなくて、子どもを生み育てる家族やお父さん・お母さんが大切にされる、ということなんでちゅよ! なるほど、産業や消費の主体だからね。

いくさは勝てばいいんだがや。

・・・・・・・・・・・・・・・・

おいらは劉知幾、唐の若造学者でちゅ。

自小観書、喜談名理。其所悟者、皆得之襟腑、非由染習。

小より書を観、喜んで名理を談ず。その悟るところは、みなこれを襟腑に得、染習によるあらざるなり。

小さいころから本をたくさん読んで、物事の定義や筋道を議論するのが大好きになりました。おいらが理解し得たことは、すべて自分の胸の中や腹の内で考え出したことばかりで、人から習ったり従来から言われていたことから思いついたことは一つも無かったんです。

(変な子ですね。)

少年時代、漢の班固の「漢書」、呉の謝承の「後漢書」(←これは今伝わる晋の范曄の「後漢書」とは違う本です)を読んで、むむむ、と思いまちた。

前書不応有古今人表、後書宜為更始立紀。

前書は古今人表あるべからず、後書にはよろしく更始のために紀を立つべし、と。

―――「漢書」の方に、対象期間ではない秦代以前の有名人の生存期間の表があるのですが、これは不要である。同書の中の記述を理解するのに参考になるものではないから。また、「後漢書」の方には、後漢の光武帝・劉秀(在位25~57)の即位前に、その上司であり親戚であった劉玄が更始帝(在位23~25)として即位しているので、この更始帝の「本紀」を記述すべきなのではないか。

すると、

当時聞者共責。

当時、聞く者ともに責む。

そのころ、おいらの主張を耳にした人は、みんなおいらを攻撃したのでちゅ。

童子何知而敢軽議前哲。

童子、何を知りてあえて前哲を軽議するや。

「こわっぱめ! おまえに何がわかって、先輩の賢者たちのお考えを軽々しく議論するのか!」

・・・「春秋左氏伝」魯・成公十六年(前575)条を閲しますに、晋と楚・鄭の同盟軍が会戦いたしました。史上に名高い「鄢陵の戦い」でございますが、この時、晋と楚が一定の距離を隔てて布陣したまま夜になった。楚軍は夜の間に行動を開始し、朝になって晋軍が気づくと、楚軍は晋の宿営の目の前まで進んで、既に戦列を整えていたのである。(当時は奇襲をすることはありません。それは「軍礼」に外れるからです。)

軍吏患之。

軍吏これを患う。

晋軍の幕僚や士官たちは、混乱した。

主将の范文子と将軍たちは、至急対応のための軍議を開いた。

この時、范文子の子・范匃(はんかい)が進み出て曰く、

塞井夷竈、陳於軍中、而疏行首。晋楚唯天所授、何患焉。

井を塞ぎ、竈を夷(やぶ)りて軍中に陳し、行首を疏せん。晋・楚はただ天の授くるところ、何をか患わん。

「軍営中に掘った臨時の井戸を埋め、飯炊き用のカマドをぶっ壊して場所をつくり、現在の軍営地の中に戦列を整え(、早く戦い)ましょう。晋も楚も、(人間の努力ではなく)天が創ったものです。(だいたい実力的には変わらないのですから、正面から戦えば、大きな敗戦をすることはありませんから)何を心配しているのですか」

すると、

范文子、執戈逐之。

范文子、戈を執りてこれを逐う。

おやじの范文子は愛用のホコをひっつかむと、息子を追い回して、言った。

国之存亡天也。童子何知焉。

国の存亡は天なり。童子何を知る。

「国が残るか亡びるか、それこそ天が決めることだ(。簡単に予想のつくものではない)。

こわっぱめ、おまえに何がわかっておるのか!」

―――この戦い、この後ドラマチックな紆余曲折を経て、最終的には晋が勝利を収めるんですが、その軍中の激しい言葉を踏まえてオトナに叱られたのでちゅ!!!!! 子どもなのに!!!!

「うわーん」

於是赧然自失。

ここにおいて赧然(たんぜん)として自失せり。

「赧」は「あからめる」。恥ずかしくて顔が真っ赤になりまちたー、ということです。

こう言われて、おいらは顔が真っ赤になり、自分を見失ってしまった。

これがトラウマになったんでちゅなあ。

ところが、その後、後漢の張衡や晋の范曄が同じような議論をしているのを読むことができた。

其有暗合于於古人者、蓋不可勝紀。

その古人に暗合有るもの、けだし勝紀すべからず。

おいらの考えが、いにしえの人たちと示し合わせたかのように同じであったことは、これ以外にも書き出すことができないほどある。

そこで、おいらは、

始知流俗之士難与之言。

始めて知る、流俗の士はこれとともに言うこと難しと。

なるほど、と思い知りまちた。俗に流されている知識人のみなさんと、話し合うのは難しいことだ、と。

それ以来、

凡有異同、蓄諸方寸。

およそ異同有れば、これを方寸に蓄わう。

おいらは、他人と違うことを考えついた時には、その考えを胸のうちだけに納めておくようになったのだ。

・・・・・・・・・・・・・・・・・

唐・劉知幾「史通」自叙篇より。そうでした、俗人と違うことを言うのはマズいのでした。こんな若造でも知っていることじゃった。ということで、

―――異次元子ども対策、サイコー! カッコいい! しびれるあこがれるぅ!

ほんとのことを言うとキモチいいなあ。

ホーム