5月1日 なぜ互いの主張をぶつけあわないのか

不問何損(問わざるも何の損ぞ)(「宋名臣言行録」)

夏も近づくメーデーです。働く者たちのために、久しぶりで役に立つお話をしてみますぞ。

主張をぶつけ合わない、のは、めんどくさいからではなかろうか。

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北宋はじめの人、呂蒙正は太平興国二年(977)の科挙状元合格。もう三十は過ぎていましたので「小僧っこ」というほどではないのですが、宋帝国が962年に建国し、二代目の太宗皇帝に代替わりしてから初めての科挙試験に合格した新進気鋭、とんとん拍子に出世して、太平興国八年(983)には参知政事(宰相の次位にあって同じ権限を持つ「副宰相」)に任ぜられた。

就任後、

入朝堂、有朝士、於簾内、指之曰、是小子亦参政邪。

朝堂に入るに、朝士有りて簾内より、これを指さして曰く、「これ小子また参政か」と。

皇帝の前で朝議が行われるので、参知政事の呂蒙正は同僚たちと一緒に颯爽と議事堂に入った。

すると、朝議に参列するために待っている官僚の一人が、すだれの向こう側から彼をゆびさして、

「あんな小僧っこでも参知政事なのか」

と言うのが聞こえた。

聞こえるように言ったのです。まわりのみんなが聞いたのですから。

しかし、呂蒙正は、

佯為不聞而過之。

佯りて聞こえずと為してこれを過ぐ。

(聞こえたはずなのに)聞こえないふりをして通り過ぎようとした。

「待て! 見過ごすわけにはいかんぞ」

其同列怒、令詰其官位姓名。蒙正遽止之。

その同列怒り、その官位姓名を詰せしめんとす。蒙正、遽かにこれを止どむ。

一緒に入ってきた同僚が怒り、発言者の官位・姓名を(係官に)確認させようとした。呂蒙正は大慌てでそれを押しとどめ、会議室に向かった―――。

罷朝、同列猶不能平、悔不窮問。

罷朝、同列なお平らぐあたわず、窮問せざるを悔ゆ。

朝議が終わって寛いでいる時も、その同僚はまだ怒りが収まらず、きちんと確認すべきだった、とぶつくさ言っていた。

呂蒙正は言った、

若一知其姓名、終身不能復忘。固不如毋知也。且不問之、何損。

もし一たびその名を知れば、終身また忘るるあたわず。もとより知る毋(な)きに如かず。かつこれを問わざれども何の損ぞ。

「(おまえさんが心配してくれるとおり、あまりにも屈辱的だから、)もしも一回彼の名前を知ってしまえば、一生涯忘れることができなくなってしまうぞ。知らない方がいいに決まっている。それに、知らないでいたからといって何も損するわけではないんだからな」

このように振る舞っておって多くの人の信頼を得、端拱二年(989)には宰相を拝命、その後長くその職にあって統一間もない帝国の内治を整えるに大いに力を揮ったのであった。

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宋・朱晦庵編「宋名臣言行録」より。「終身忘れることはできない」など実はかなりキツイ人だということがわかりますよね。だからこそそれを抑制するのにがんばっていた、ということが勉強のしどころですが、「損しない」ならしないでいいか、と新自由主義を理解する現代人のみなさまなら納得、というか「当たり前だろ、何の勉強になるの? これ」ですよね。

なお、この呂蒙正のエピソードは朱子が編纂にきちんと携わったとされる宋初の五朝(五代の皇帝時代)の名臣の分ですが、後半の三朝分になると実は彼はほぼ関与してないのではないかとも言われる。また、そもそもその人への誉め言葉しか入っていない「行状」や「墓誌銘」の類から採用した話柄が多いので、呂蒙正の子孫にあたる呂祖謙からも「こんなの出版したら誤解を呼ぶだけではないか?」と詰問されて朱子が「まったくだ」とその場しのぎみたいに答えているぐらいの本なので、みなさん読まなくても困りませんよ、という役に立つお話をしておきます。・・・と言っておいて、わしは読んどこうかなー。むふふ。

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