奸銭日多(奸銭日に多し)(「鶴林玉露」)
おカネの話が出たら詐欺、と岡本全勝さんも言ってます。
ところで、今年は確定申告をしたんですが、そうしたら、昨日、日本国政府から手紙が来て、「税金早く払え」と怒ってきました。

七難八苦は要りません!
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なぜ「払ってください」と頭が下げられないのか、とは思いますが、おまえらの政策のおかげでどんどん円安だからカネの価値など大してない、少々の税金なら払ってやるか、こんなはした金、わははは・・・みたいな気分になれればいいのですが、まだまだそこまでは達観できてません。そうできるようにがんばるぞ。
ところで、
今江湖間、俗語謂銭之薄悪者曰慳銭。
今、江湖の間、俗語に銭の薄悪なるものを謂いて、「慳銭」と曰う。
現代(南宋のころです)、世間では、俗に、銭の薄くて価値の無いもののことを「慳銭(けんせん)」と言ってますよね。
「慳」(けん)は「おしむ」と訓じます。もったいない、と惜しむこと。薄い銭を「惜しみ銭」という?うーん、どうもぴったり来ません。大事な大事なおカネのことで語感がぴったり来ないのはどこかおかしい。
漢の賈宜がいうところでは、
今法銭不立、農民釈其耒耜、冶溶炊炭、奸銭日多。
今、法銭立たず、農民その耒耜(らいし)を釈(と)きて、炊炭に冶溶し、奸銭(かんせん)日に多し。
現代(漢の時代のことです)、銭についての国の定めが確立していないので、農民たちはスコップやスキの鉄の部分を取り外し、炊事用の炭で溶かして銭を作っているので、「奸銭」(かんせん)が日に日に多くなっている。
のだそうです。
「奸」は邪悪、悪い、さらに公に対する私、といった意味があります。「悪質な(私鋳)銭」というぐらいの意味になるでしょうか。
按ずるに、
俗音訛以奸為慳爾。
俗音、訛して「奸」を以て「慳」と為すのみならん。
考えてみるに、しもじもの間では、この「奸」(かん)が訛って「慳」(けん)になってしまっただけであろう。
これで謎が解けました。みなさんも納得ですよね。
我が国でいう「びた銭」の「びた」は、「平たい・べたな」擦り切れて薄くなってしまった銭のことだそうですから、語感は近いのかなと思います。なお、「びた」に漢字「鐚」(ア)を当てますが、この「鐚」は本来は兜から垂れて首筋を守る防具のこと(和語では「しころ」)を指す文字です。しかし字をようく見ると、「金の悪いもの」に見えるので、わが国では「びた銭」を指す文字として使われるようになってしまったのです。
この薄い悪貨(慳銭、びた銭)と、安くなった円は同じようなもの、といえるかも知れません。(←経済音痴である)
さて、南宋の益公・周必大(1126~1204)が宰相を引退したあと、
欲以安楽直銭多五字題燕居之室。
「安楽は銭の多きに直(あたい)す」の五字を以て、燕居の室に題せんと欲す。
「安楽に暮らすことは、おカネがたくさんあることと同価値だ」というコトバを、普段暮らしている部屋に掲げようと考えた。
しかし、題額にするには、対句が要ります。
思之累日、未得其対。
これを思うこと累日なるも、いまだその対を得ず。
何日間も対句を考えたのだが、いいアイディアが浮かばなかった。
すると、
一士友請。
一士友請う。
読書人の友人が「これでどうだ」と案を出した。
すなわち、
富貴非吾願。
「富貴は吾が願いにあらず」
「財産と地位を得ることは、わたしの願っていることではない」
と。
「うひょー、これいいじゃないか」
公欣然用之。
公、欣然としてこれを用いたり。
周公は、大よろこびでこの対句を使って額を作った。
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宋・羅大経「鶴林玉露」乙編巻三より。おカネ儲けるよりも安楽にしているほうがいいと思いますよ。汗して働くのは楽しいから、その代わりにおカネが入ってくるならまだしもがまんもできようが、株式やNISAやそんなんでおカネを儲けるのに使う時間は楽しくない上におカネまで儲かってしまうのでは、イヤになります。やったことないので知りませんけど。
ちなみに、「富貴非吾願」は、晋・陶淵明「帰去来辞」の一節です。
已矣乎。(中略)富貴非吾願、帝郷不可期。懐良辰以孤往、或植杖而耘耔。
已んぬるかな。・・・富貴は吾が願いに非ず、帝郷は期すべからず。良辰を懐いて以て孤往し、或いは杖を植して耘耔(うんし)せん。
もう終わったことだ。(中略)
もともと財産や地位を得ることは、わたしの願っていることではなかった。
天帝のおられるという仙人の世界も、行きつけるところではなさそうだ。
(天気の)よい日を喜んで一人で出かけ、
時には杖を立てておいて、田畑でくさぎったり耕したりしていよう。
というのである。