独不懼耶(独り懼れざるや)(「楡巣雑識」)
気をつけていても失敗することがあります。年をとってどんどん増えてきたような気がします。

肝冷斎などまだまだひよっこの年寄、大丈夫じゃ・・・というわしの判断力自体がヤバイかも。
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清の時代、康煕・雍正の名臣、文端公・張鵬翮(ちょう・ほうかく)さまは、関帝(関羽さま)を篤く敬っていたので有名である。
康煕年間の半ばごろ(1700年ぐらいですね)、河道総督として黄河の治水に奔走していた時には、
於行署庁事中供奉関帝像、傍周将軍持刀侍立、自設几案、端座弁事。
行署において庁事中、関帝像と、傍らに周将軍の刀を持ちて侍立せるを供奉し、自ら几案を設けて、端座して事を弁ず。
出張所において業務を行う際には、関帝さまの像と、その傍で刀を持って護衛している周倉将軍の像を飾り、その前に自分で机を出して、正座していろいろ判断をするのであった。
関帝さまの前では良心に愧ずることはできないのである。
有時集寮属商略、稍有不当、即拱手曰関夫子在上、監察無遺。豈敢徇隠。
時に寮属を集めて商略する有るに、やや不当なる有れば、即ち手を拱きて曰く、「関夫子上に在りて監察して遺す無し。あにあえて徇隠せんや」と。
所属のスタッフたちを集めて会議を開く時もその像の前であった。議論をしていて、どうも腑に落ちないということがあると、突然、両手を胸の前であわせて恭しさを表すポーズをとり、
「関羽さまが空の上から見ておられる。すべてを厳しく見ておられるのだ。どうして言うべきことを言わずに、黙っていることができようか」
と言って、議論をやり直すのであった。
また、
間有干涜者、即曰、周将軍刀利、爾独不懼耶。
間に干涜(かんとく)せし者有れば、即ち曰く、「周将軍の刀、利なるに、爾独り懼れざるや」と。
時に、汚職が判明した者があると、即座に、
「周将軍の刀が研ぎ澄まされているのに、どうしておまえだけはそれがコワくなかったのだ!」
と叫んで、厳しく罰せられたのであった。
この人も「コワいからしてはいけない」とわかっていても眠くてしてしまった、だけなのかも知れませんね。
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清・趙慎畛「楡巣雑識」下より。張鵬翮さまは、これだけ読むとアブない人みたいに見えますが、ほんとはすごい人なんです。
張鵬翮は、四川・遂寧のひと、康煕九年(1670)の進士、対ロシア外交、各地の巡撫・総督、礼部・吏部の尚書(長官)を歴任し、どの仕事でも功績を挙げて、康熙帝をして
天下廉吏、無出其右。
天下の廉吏、その右に出づる無し。
「清廉潔白で有能なること、世界の官僚に彼よりすぐれた者はおるか」
と感嘆せしめた。
康熙帝崩御の後、雍正帝から文華殿大学士(宰相)に任ぜられる。死後、
雍正帝からも
一代之完人、千秋之茂典。
一代の完人にして、千秋の茂典なり。
完全な人間として一生を終え、千年の後輩たちのすぐれた手本となった。
という弔辞をいただき(「清史稿」本伝等)、清朝が終わるまで名臣をお祀りする「賢良祠」で毎日礼拝されていた、というすごいすごい人なのですぞ。