君子而夜行(君子にして夜行す)(「觚賸」)
この人も、ただ眠たかっただけなのではないでしょうか。

(わしも・・・病的に・・・眠い・・・)
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新しい王朝に仕えることなく、学問と人格で多くの人に影響を与えた清初の三先生の一人、顧亭林は、
貌極醜怪、性復厳峻。
貌極めて醜怪にして、性また厳峻なり。
容貌はきわめて醜く変であったが、性格もまた峻厳であった。
清の時代になった後も、各地を転々として抵抗運動を続けたが、
凡所至之地、輒買媵婢、置荘産、一二年即棄去、終已不顧。
およそ至る所の地、すなわち媵婢(ようひ)を買いて荘産に置き、一二年即ち棄去してついに已むも顧みず。
どこに行っても、必ずカネで愛人を買い、田舎の所有している土地に住まわせた。一二年もすると愛人を棄てて、死ぬまで顧みることは無かった。
「媵」(よう)は古代に嫁につけて嫁入りさせた女のことです。
而善於治財、故一生羈旅、曾無困乏。
しかるに治財に善く、故に一生羈旅するもかつて困乏する無し。
しかし、カネ儲けはうまかった。それで、一生旅の空の境遇にありながら、どこにいっても貧乏することはなかったのだ。
江蘇・東海の両なにがしは試験に受かって北京で「学士」の地位を得たが、
宦未顕時、常従仮貸、累数千金、亦不取償也。
宦いまだ顕かならざる時、常に従いて仮貸し、数千金を累(かさ)ぬるも、また償を取らず。
役人としていまだうだつの上がらないころは、いつも亭林先生に従ってカネを借りており、数千万円になっていたが、先生は返せともいわなかった。
康煕丙辰、余在都下、而先生適至、両学士設宴、必延之上座。
康煕丙辰、余、都下に在りて、先生たまたま至り、両学士宴を設くるに、必ずこれを上座に延(ひ)けり。
(明が滅びてから30年ほど経った)康煕十六年(1676)、わしが北京にいたときのこと、亭林先生が放浪の過程でたまたま上京してみえたので、両学士は一席設けた。その際、絶対に上席に座らせようとした。
上座に座った亭林先生に対して、両はお酒を勧めた。すると、
三爵既畢、即起還寓。
三爵既に畢りて、即ち起ちて寓に還らんとす。
亭林先生は、三杯飲んだ(礼の規定どおりである)。三杯飲むと、立ち上がって、旅館に帰ろうとした。
学士が言った、
甥尚有薄蔬未薦、舅氏幸少需。暢飲夜闌、張灯送回何如。
甥(てつ)、なお薄蔬のいまだ薦めざる有り、舅(きゅう)氏幸いに少しく需(ま)て。暢飲して夜の闌(たけなわ)なるに、灯を張りて送回せば何如ぞ。
目下のわたしめ、まだお出ししてない安物のおかずがございます。おやじさん、できればもう少しいてください。好きなだけ飲んで、夜が更けたら提灯持ってお送りしますよ。
「このおろかものが!!!!!」
先生は激しくお怒りになって、おっしゃった。
世間惟淫奔納賄二者皆於夜行之。豈有正人君子而夜行者乎。
世間ただ淫奔・納賄の二者のみ、みな夜にこれを行うなり。あに正人君子にして夜行く者があらんや。
この世の中、道ならぬエッチをするやつと、賄賂を贈ったりもらったりしようとするやつだけが、夜に移動するのだ。まっとうな人間、ちゃんとした者が、夜移動しているの見たことあるか!
「ありますよ」と言いたいところだが、
学士屏息粛容、不敢更置一詞。
学士、屏息して粛容し、敢えて更に一詞を置かず。
両学士は息をひそめ、かちこちに緊張して、それ以上一語も発しなかった。
亭林の弟子だった陸舒城がいつも言っていた。
人眼倶白外黒中、惟我舅祖両眼倶白中黒外。
人は眼ともに白外に黒中なり、ただ我が舅祖のみ、両眼ともに白中にして黒外なり。
「人間というのはみんな、白目の中に黒目がある。ただ、うちのおやじさんだけは両目とも、黒が外で白が中なんだ」
非習見不知其形容之確。
習見にあらざれば、その形容の確かなるかを知らず。
ちらりと会っただけのわたしには普通の人と同じように見えたものだが、
いつも見慣れている、というわけではないので、彼の表現が正しいのかどうかわからない。
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清・鈕琇「觚賸」続篇巻二より。くそおやじだ。こわいですね。これに借金したら頭上がらんでしょう。しかし、夜行うことはエッチと賄賂のやりとりだけだ、はいい言葉ですね。早く寝ないといけません。