前呼邪許(前に邪許(やこ)と呼ぶ)(「淮南子」)
「ソーラン」といえば「よさこい」と応えるのは何故であろうか。力が発揮できるのだろうか。

がまんすることに無為にして肥りきたるなり。
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史実なのか寓言なのか知りませんが、戦国の時代、魏の恵王(在位前369~前319)のために、原初的法家の恵施(荘子の友だちのやつです)が「国法」案を作った。
已成而示諸先生。先生皆善之。
已(すで)に成りて諸先生に示す。先生、みなこれを善しとす。
案ができたので、長老たちに見せてみたところ、長老たちはみんな「これは善くできている」と言った。
そこで、
奏之恵王。恵王甚説之、以示翟煎。
これを恵王に奏す。恵王はなはだこれを説(よろこ)び、以て翟煎(てきせん)に示す。
そこで法案を恵王に上奏した。恵王はたいへんよろこばれ、翟煎に見せた。
翟煎がどんな人なのか、史料が無いのでよくわかりません。情報が公表されていないのです。
翟煎は言った、
善。
善し。
「善く出来ておりますな」
恵王は言った、
善可行乎。
善なれば行うべきか。
「善くできているなら、実行してよいか」
翟煎は言った、
不可。
不可なり。
「おやめになるのがよろしい」
恵王は言った、
善而不可行、何也。
善にして行うべからざるは、何ぞや。
「ええー!!! 善くできているのに実行するのは止めた方がいい、とはどういうことか」
翟煎は言った、
今夫挙大木者、前呼邪許、後亦応之。此挙重勧力之歌也。
今、夫(か)の大木を挙げんとする者は、前に「邪許」(やこ)と呼べば、後ろもまたこれに応ず。これ重きを挙げるに力を勧むるの歌なり。
「大木を持ち上げようとする者たちをご存じですか。前の者が「えいほー」と呼ばうと、後ろの者もまたそれに「えいほー」と応えます。これは重いものを持ち上げるために、互いに力を出し合うための歌なのです。
豈無鄭衛激楚之音哉。然而不用者、不若此其宜也。
あに、鄭衛・激楚の音無からんや。然るに用いざるは、かくのごとくそれ宜ならざればなり。
世の中には、鄭・衛の歌のように色っぽい歌もあります。楚の歌のように激しい歌もあります。しかし、ここではそれらの歌は使いません。なぜなら、物を持ち上げる時は、そのような歌を歌う場面ではないからです。
よくお考えください。
治国有礼、不在文弁。故老子曰、法滋彰、盗賊多。有此之謂也。
治国には礼有り、文弁に在らざるなり。故に老子曰く、法いよいよ彰らかにして、盗賊多し、と。これ、この謂いに有り。
国を治めるには、「礼」(しきたり)がございます。論理的に正しいかどうかではないのです。だから、老子が言っているではありませんか。
―――法が明確になればなるほど、盗賊は増えてくるんじゃ。
と。これこそ、このことでございます」
「そうか、ではしばらく止めとくか」
とお止めになったのでございました。
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「淮南子」巻十二「道応訓」より。正義の改革を妨げるとは怪しからんやつだ、翟煎の本名をさらせ、職場に電凸だ・・・と、思いますよね。インボイス制度とかマイナカードとかどんどん導入して、不正させなくするといいと思います。正義を断じて行えばいいと思います。だが、この国のどちらかといえば弱いところから取り上げるばかりになってたりすると、盗賊、増えるかもよ。
ちなみに、引用されているのは「老子」第五十七章です。
せっかくの機会なので読んでおきましょう。「淮南子」の翟煎さんとは少しニュアンスが違うかも。
以正治国、以奇用兵、以無事取天下。吾何以知其然哉、以此。
正を以て国を治め、奇を以て兵を用い、無事を以て天下を取る。吾、何を以てその然るを知るや、此れを以てなり。
国を治めるにはまともに取り組み、軍を動かすには思いも寄らぬ作戦を取り、天下を取るには何もしないでいることだ―――。わしはどうしてそのことを知ったのであろうか、以下のことによって知ったのじゃ。
相変わらず変な言い回しをするじじいです。
夫天下多忌諱而民弥貧、人多利器国家滋昏、民多技巧奇物滋起、法令滋彰盗賊多有。
それ、天下に忌諱(きき)多くいて民はいよいよ貧しく、人に利器多くして国家いよいよ昏(くら)く、民に技巧多くして奇物いよいよ起こり、法令いよいよ彰らかにして盗賊多く有り。
ほい、天下に決まり事が多ければ人民どもはどんどん貧しくなるぞ。
人類に便利なものが増えれば社会はどんどんわけがわからなくなるぞ。
人民に技術や理屈が行き渡るとおかしな物事がどんどん起こり始めるぞ。
法令が明確になればなるほど盗賊が増えてくるぞ。
故聖人云、我無為而民自化、我好静而民自正、我無事而民自富、我無欲而民自樸。
故に聖人云う、我無為にして民は自ずから化し、我静かなるを好めば民自ずから正しく、我事無くして民自ずから富み、我無欲にして民自ずから樸(はく)なり、と。
だから聖人さまは言うたのじゃ、
―――わしが何もしないでいると人民たちはそのうちに文明化された。わしが何も起こらないのをいいと思っていると人民たちはそのうちに正しくなった。わしが何もしないでいると人民たちはそのうち豊かになった。わしが何もしようとしないでいると人民たちはそのうち純朴になった。
と。