怨禍不及(怨禍及ばず)(「資治通鑑」)
党人が怨みや禍から逃れることはできるか。資格停止してもらえばいいのかも。

「弱いので見逃してくだちゃい」では済まされない世の中だ。
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建寧二年(169)、党錮の禁が吹き荒れ、多くの清流官僚(「党人」)が宦官勢力によって死に追いやられた。
この時、清流派の一人と目されていた郭泰は、
聞党人之死、私為之慟。
党人の死を聞き、私(ひそ)かにこれがために慟す。
党人たちが次々と殺されていっていると聞き、表に知られないように慟哭した。
単に「悲しんだ」ということではなく、秘密に「礼」を以て死者を悼んだ、という意味になります。
そして、親しい者たちに言った、
詩云、人之云亡、邦国殄瘁。漢室滅矣。
詩に云う、「人の云(ここ)に亡ぶる、邦国殄瘁せん」と。漢室滅びん。
「詩経」大雅・瞻卬に云うではないか、「その人が今や死んでいく、国家は衰え尽きゆかん」と。漢の帝室はいよいよ滅亡することになったようじゃ。
但未知瞻烏爰止、于誰之屋耳。
ただ未だ、「烏の爰(ここ)に止まるを瞻るに、誰の屋にせんや」を知らざるのみなり。
今のところはまだ、「詩経」小雅・正月に云うところの「カラスが止まるそこは、誰の家の屋根だろうか見てみよう」、つまり次に天下を人民が身を寄せようとするのが誰なのか、はわからないがのう。
ちなみに、
泰雖好臧否人倫、而不為危言覈論。
泰は人倫を臧否(ぞうひ)するを好むといえども、危言覈論(かくろん)を為さず。
「人倫」は「人のともがら」その人がどのレベルの人か区別する、「臧」は「よい」、「危」「覈」はいずれも「激しい」とか「厳しい」「峻厳」という意味です。
郭泰は人を分類して、よい・悪いを評価するのが得意であったが、激しいコトバや厳しい論評はしなかった。
故能処濁世、而怨禍不及焉。
故によく濁世に処して、怨禍及ばざりき。
それで、こんな濁流の時代に対処して、怨みや禍いを及ぼされなかったのである。
努力すればなんとかなるのかも。
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宋・司馬光編「資治通鑑」巻五十六より。この本を編纂した司馬光自身も、新法党による攻撃を受けて「元祐党人」(旧法党として官界から除名された人)とされていたので、思うところあって書いているはずです。司馬光の死後に新旧両法党の党争は際限無くなっていくのですが・・・。