猿猱飲焉(猿猱(えんどう)焉(ここ)に飲む)(「管子」)
就活や単位取得に関係ありませんから学生にダメ出しされてしまいます。だが、社会人のみなさんは、もっと関係ないですね。

サルやブタより時代はカッパでカッパ。
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春秋時代、紀元前七世紀の人間はサルに敵わなかった、とは情けないです。クマやクジラにも勝る現代のわれわれのように優れていなかったんでしょうね。
そんな昔の人たちのことですから、彼らが
必得之事、不足頼也。必諾之言、不足信也。
必ず得んとの事は頼るに足らざるなり。必ず諾うの言は信ずるに足らざるなり。
「絶対成功しますよ」というような案件については、信頼することはできない。「必ずやり遂げられます」というような言葉は、信用してはいけない。
小謹者、不大立、此食者、不肥体。
小謹する者は大立せず、此食(ししょく)する者は肥体ならず。
小さいことを気にするやつは大きな仕事はできない。少ししか食べないやつは肥った体にならない。
これは間違ってますね。あまり食べてなくても肥るやつは肥るんです。人間の努力とは関係ないのだ。
一方で、
有無棄之言者、必参之於天地也。
棄つる無きの言有る者は、必ず天地に参す。
「参」は、天・地の二つに加わって「三つ」めの力として宇宙を運営する仕事をする、ということです。これが「参加」です。
言葉にムダな部分がない人は、必ず天(の時)、地(の利)に加わって、人間の力を発揮して世界を動かしていくであろう。
ここまで、印象的なコトバで、いろんな人がいることを言っています。能力のあるやつもいれば、信頼できないやつもいる。肥らないやつもいます。
墜崖三仞、人之所大難也。
墜崖三仞なれば、人の大いに難きところなり。
一仞(じん)は七尺のことです。十尺で一丈なので、三仞は二丈一尺です。春秋時代の一尺は約20センチメートルなので、三仞は4メートル強。
4メートル強の切り立った崖は、人間にとっては大変な難所である。
しかし、
而猿猱飲焉。
しかるに、猿猱(えんどう)は焉(ここ)に飲む。
けれども、サルや子ザルは、(これぐらいの崖はなんとも思わずに登り下りして)この崖の下の谷で水を飲んでいる。
何ものにも、得意不得意があるものなのだ。
故曰、伐矜好専、挙事之禍也。
故に曰く、伐矜(ばつきょう)して専を好むは、事を挙ぐるの禍いなり、と。
それ故に、むかしから言いますとおり、
「自分の能力を誇って、なんでも自分の思い通りにしようとするのは、仕事をしていく時にはマイナスになる」
のである。
もっと人の言うことを聞かなければなりません。
不行其野、不違其馬。
其の野に行かざるも、その馬を違(さ)らず。
たとえ郊外に出かけることがないとしても、ウマを処分してしまうわけにはいかない。
これも昔の人(もちろん賢者)が言っていた言葉なのでしょう。「たとえ平和な時代であったとしても、能力のある部下をクビにしてしまうわけにはいかない」という意味に使われます。
能予而無取者、天地之配也。
よく予(あた)えて取る無き者、天地の配なり。
(その時点ではムダな給料でも)よく与えて自分の手元に利益を残さないような君主こそ、天・地に「参加」してこの世を動かしていくことになるだろう。
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「管子」形勢篇より。あちこちに「名言」がちりばめられていて、勉強になりますね。しかし、科挙にもセンター試験にもおそらく出ないから勉強しなくていいと思います。勉強の目的なそんなものである方は。
もちろん「管子」は春秋時代の斉の大宰相・管仲(?~前645)に名を仮りた本で、戦国や漢の時代にまとめられたものだろう、と言われるのですが、この形勢篇をはじめとした九篇はかなり古い時期(春秋時代末ぐらい)に成立した可能性があり、もしかしたら本当に管仲の著述かも、と言われます。管仲以降の儒家や法家の思想に整理される前(それ故に現代にも少しだけは通用する)のプリミティブな合理的政治思想が見られるとかなんとか。ぶつ切りの「名言集」みたいになっているところが古そうな感じはします。とはいえ本人は無いやろとは思いますが。