手格猛虎(猛虎を手格す)(「池北偶談」)
明日はまた出勤です。めんどくさい。早く逃げ出して文明社会と絶縁し、「野人」となりたいものである。

明日からは五月。おいらの時代だぜ。
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今日の話は虐殺ものなので、嫌いな人は読まない方がいいですよ・・・と警告しましたからね!好きな人はいいんですよ。ひいひっひっひっひ・・・。
明末に四川に大西帝国を建てた流賊出身の張献忠は、清に攻められて陝西に逃亡するまでの数年間に、史上稀にみる大虐殺(「屠蜀」)を行ったので名高く、300万人以上いたと言われる当時の四川中心部の人口が、数万人にまで減ってしまったというのだから尋常ではない。
「そんなバカなことはあるまい。白髪三千丈の類であろう」
と大人は思ったりするのですが、この時期を境にそれまでの四川方言がほぼ消滅してしまっているらしいので、そのレベルの虐殺が行われたのは事実であろうと推定されています。凄いですね。
張献忠はとにかく人を殺すのが好きだったそうで、ある晩、「今日は殺すやつがいないのか」と叫び出して、愛妾や子どもたちまで殺してしまったといわれ、現代でもチャ〇ナのインターネットでは「献忠する」が無差別〇人を指す隠語として使われているという。
清朝が同時期にやった揚州の虐殺など、十万単位だからまだしもふつうの虐殺だ、と開き直てくる?ような凄まじさですが、ここまでは前置きです。
この「屠蜀」の時、
遺民奔竄山谷、久之遂為野人。
遺民、山谷に奔竄し、これを久しくして遂に野人と為る。
逃げ出した民衆がいて、山や谷にばらばらに逃亡してしまい、その後の年月を経て、とうとう「野人」となってしまった。
らしいんです。
康煕年間半ば、清の統一から五十年ぐらい過ぎたころ、
南江有二野人、能手格猛虎、恒擘獐鹿啖之。
南江に二野人有りて、能く猛虎を手格し、恒に獐鹿を擘(さ)きてこれを啖らえり。
「格」は「挌」(かく)とも書き、「なぐる」こと。
四川・巴中の南江県には、この野人らしき者が二人いた。二人とも素手で猛虎を殴り殺すことが出来、つねに大鹿を手で引き裂いて食っていた。
懸崖絶壁、騰上如鳥隼。
懸崖絶壁も、騰上すること鳥隼の如し。
垂直の崖や切り立った壁でも、一気に登り切ることが出来て、その姿は鳥や隼(鳥の一種ですが)のように見えたという。
人間の心も失われているらしく、
雖其家人親戚招之、疾走不顧也。
その家人・親戚これを招くといえども、疾走して顧みざるなり。
家族や親戚が連れ戻しに行ったのだが、すばやく逃げてしまって、顧みることも無かった。
これは岳石齋から聴いた。岳石齋は南江の人である。(だから正しい情報だ。)
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清・王子禎「池北偶談」より。いろいろ突っ込みたくなってくる記述ではあるのですが、「屠蜀」の歴史的事実の前ではたいていのことは色褪せてしまうので、「まあ、(五十年も経って家人親戚がどこから来たかというぐらいの)少々の不審はどうでもいいか」という大らかな気持ちになります。読者諸姉兄におかれては、如何でしょうか。
お。北魏の話してますね。このころも人口少ないんですよね。