五快活(五の快活)(1~3)(「袁中郎尺牘」)
人生にはいいこともあるんだそうです。

あまり快楽を極めていると、しょっぴかれるかも。
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真楽有五、不可不知。
真楽五有り、知らざるべからず。
ほんとうの楽しみに五種類ある。みなさん、知らないわけにはいきませんぞ。
と言いましたところ、普段はわたしの話になど耳を貸さないみなさんだが、「ほんとうの楽しみ」についてお知りになりたいのでしょう、
「へへへ」「ぐふふ」「ひひひ」「うほほ」
と寄ってまいりました。
目極世間之色、耳極世間之声、身極世間之鮮、口極世間之譚、一快活也。
目は世間の色を極め、耳は世間の声を極め、身は世間の鮮を極め、口は世間の譚を極む、一の快活なり。
目ではこの世のあらゆる見た目のいいものを見尽くす。耳ではこの世のあらゆる心地いい音声を聞き尽くす。体にはこの世のあらゆる新しい衣服を着尽くす。口ではこの世のあらゆる物語を語り尽くす。これが第一番目の快楽である。
堂前列鼎、堂後度曲、賓客満席、男女交寫、燭気薫天、珠翠委地。
堂前に鼎を列(なら)べ、堂後には曲を度(はか)り、賓客席に満ち、男女寫(しゃ)を交え、燭の気は天を薫じ、珠翠は地に委(ゆだ)ぬ。
宴会場の前半分には料理を並べる。後ろ半分では音楽を演奏する。よき客人たちが席に満ち、男も女も履物を交叉しあう(しどけなく触れ合っているのじゃ!)。蝋燭の烟は天をも燻し、緑の珠が(首飾りや耳飾りが解けて)床に転がっている。
という豪勢な宴会を開く。ああ楽しいなあ。ひっひっひ。〇ジテレビみたいです。みなさん、目を輝かせていることでしょう。もしかして、みなさんこれ以上の快楽は知らないかも。けれども、それだけではまだ真の快楽ではありません。
金銭不足、継以田土。二快活也。
金銭足らざれば、継ぐに田土を以てす。二の快活なり。
お金が足らなくなったら、田んぼや土地を売って足し、客に不自由はかけない。これが第二番目の快楽である。
次に、
篋中蔵万巻書、書皆珍異。
篋中に万巻の書を蔵し、書はみな珍異なり。
箱の中には一万冊の書物がしまわれ、それらの書物はすべて珍しく、不思議なものばかりだ。
知り合いに、なかなか読まない本を好奇心に任せて買ってきて困っている人もいますが、一万冊しまいこめるなら何とかなりそうだ。しかし、それだけではまだ真の快楽ではないんです。
宅畔置一館、館中約真正同心友十余人、人中立一見識極高、如司馬遷、羅貫中、関漢卿者為主、分曹部署、各成一書、遠文唐宋酸儒之陋、近完一代未竟之篇。三快活也。
宅畔に一館を置き、館中には真正同心の友十余人と約して、人中に一見識の極めて高く、司馬遷、羅貫中、関漢卿の如き者を立てて主と為し、曹を分け部署して、おのおの一書を成し、遠くは唐宋の酸儒の陋を文し、近くは一代にいまだ竟(お)えざるの篇を完たくす。三の快活なり。
自宅の周囲に一軒のでかい建物を作り、ここには本当に心を許した友人十数人と約束して、次のような作業を行う。まず、その中でも見識の極めて高い、「史記」を書いた漢の司馬遷や、「三国志演義」を完成した明の羅貫中、「竇娥冤」など元雑劇の名作を書いた元の関漢卿のような人物を立てて班長にし、部屋を分けて担当者を配置して、それぞれ一冊の本を書かせる。そこでは、昔のことでは唐や宋のしかめっ面をした儒者どもの田舎っぽいのを飾ってやり、現代のものではまだ完成していない時代を代表するような書物の製作を仕遂げるのだ。これが第三の快楽である。
新しい文化を創造する楽しみだ!
・・・とここまで来たところでもう深夜も深夜、まただんだん目がしょぼしょぼしてきました。インフルエンザにも罹患(自己診断)しているし、あとは明日にいたしましょう。
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明・袁宏道「袁中郎尺牘」巻五「与龔惟長先生書」(龔惟長先生に与うる書)より。龔惟長先生に送った手紙の中で意見を開陳しているんです。「五快活」は一番から四番までは晩明の快楽的な市民文化の風潮を表していて「なるほど、これは快楽だぜ」と思わせるのですが、五番目が特に有名なんです。気持ちいいですよ。ああ早くみなさんに教えてあげたいなあ。うっしっし。