儂家暫下山(儂家(われ)暫く下山す)(「寒山詩」)
GWになりました。都会は逆に空いていることであろう。少し覗きに行ってみるかな。

みなさんならともかく、聴覚も嗅覚もすぐれ、分別もあるわんこが↓そんなことするはずはありません。譬喩として成立していると言えるのか、疑問無しとしないでわん。
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儂家暫下山、入到城隍裡。
儂家(われ)暫く下山し、入りて城隍の裡に到る。
「儂」は江南地方の一人称。男も女も使ったようです。「儂家」と言ってますが「わたしの家」ではなく、「家」も一人称についてその「人」を表しています。「城隍」(じょうこう)は濠に取り囲まれた都市。
わしはしばらく山を下りて、繁華な都市にやってきた。
すると、むむむ!
遥見一群女、端正容貌美。
遥かに一群の女の、端正にして容貌美なるを見たり。
向こうの方に、何人かの女たちがいる。みんなきっちりとして顔かたちが美しいではないか。
頭戴蜀様花、臙脂塗粉膩。
頭には蜀様の花を戴き、臙脂は粉膩に塗れり。
「蜀様」というのはそのままだと「蜀ふうの」という意味ですが、本来は「蜀様錦」(蜀の土地で生産されるすばらしい錦)のことです。「臙脂」(えんじ)は植物性の「べに」、「粉膩」(ふんじ)はおしろいと頬紅。
頭にはまるで蜀でできる錦のような花をつけ、おしろいと頬紅の上にくちべにをつけている。
金釧鏤銀朶、羅衣緋紅紫。
金釧には銀朶を鏤し、羅衣は緋と紅紫なり。
銀の糸を嵌めこんだ黄金の腕輪をつけ、赤と赤紫の薄絹の服を着ておる。
朱顔類神仙、香帯氛氳気。
朱顔は神仙に類し、香は氛氳(ふんうん)の気を帯びたり。
血色のいい顔はまるで仙女さまのようじゃ、横を通るとむんむんといい匂いがする。
うへへへ。
時人皆顧盼、痴愛染心意。
時人はみな顧盼(こへん)し、痴愛は心意に染(し)みたり。
現代人たちはみな彼女らを振り返り、あるいは横目で見て、おろかな愛情はその心に染みついたようだ。
謂言世無双、魂影随佗去。
謂言(い)うに世に無双にして、魂影は佗(た)に随いて去る、と。
そして言うのだ、「こんな人たちは他にはいないぞ、おれたちの魂魄は、あの人たちに引っ付いて行ってしまうぞ」と。
うひひひ・・・。いや・・・、ああ! オロカなことではないか。(寒山子はここでやっと本来の自分を取り戻したのだ)
狗齩枯骨頭、虚自舐唇歯。
狗は枯骨の頭を齩(か)みて、虚しく自ら唇と歯を舐む。
ここは少し解説が要ります。イヌは、もう肉片のかけらも無いしゃれこうべを見つけると、これにかじりつく。ばりばりと骨が割れて、イヌの唇や歯から血が出る。しかし、イヌは、それをしゃれこうべから出る旨い汁だと信じて、美味そうに舐めるのだ。おまえたちが現世で欲望に駆られている姿は、まさにそのままである―――と「正法念処経」というお経に書いてあるんだそうです。すさまじいといえばすさまじいが、さすがに坊主どもはうまい譬喩を使いますね。
イヌはしゃれこうべを齧って、自分のくちびると歯から出る血を、それと知らずに嘗めているではないか。
おまえさんたちは同様に女たちを「うへへへ」と見るばかりで、
不解返思量、与畜何曾異。
思量を返すを解せざれば、畜と何ぞ曾て異ならんや。
それが虚しいことだと心を取り戻すことができないならば、わんことどこが違うというのだ。
人間とは言えないのではなかろうか。
ほら、見たまえ。
今成白髪婆、老陋若精魅。
今、白髪の婆と成りて、老陋なること精魅のごとし。
「精魅」はバケモノ。
今や女たちはあっという間に白髪のばばあに成り、老いさらばえ醜くく、バケモノのようだぞ。
おまえさんたちは、
無始由狗心、不超解脱地。
無始に狗心に由りて、解脱の地を超えず。
はるかな昔から(何度も生まれ変わってきたわけだが)ずっとイヌのような心のままだ、だから解脱の境界線から向こうへ行けないのだ!
ひいっひっひっひ。
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「寒山集」より。いつもの寒山子の飄逸たるに対して、今回は対象の表現や説教がかなり執拗です。詩を作っていて、だんだん興奮してきているような節も。珍しい一篇だといえましょう。
一方、女たちの姿やそれを追いかける男たち―――昭和のギラギラした時代を思い出させます。セクシーダンサー事件は、その時代を彷彿とさせて、元気があってよろしいではありませんか。
・・・というのはホンネではありませんぞ。実はわしはずっとこの山中にいますので、昭和とかバブルとかダンサー事件とか言っても知らないんです。知らないんだから批判してもしようがありませんよ。