不可決去(決去すべからず)(「袁氏世範」)
できないんですよ、ほんとに。ダメなところも含めて自分の一部ですから。

それは舌だ、うそはつくけど取り去ってはいかん!
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南宋の人、梧坡先生・袁采は隆興元年(1163)の進士、いくつかの県の知事を務め、紹煕三年(1192)ごろまで経歴が追えるようですが、ほどなくして在職中に亡くなったようです。その人が一族のために書き遺した家訓みたいなのが「袁氏世範」で、後世のひとが単なる「家訓」ではなく世の中一般に役に立つ、として「世範」と名付けたそうです。
今日はちょっとだけ読んでみます。みなさんの役に立つかも。
身有瘡痍疣贅、雖甚可悪、不可決去。惟当寛懐処之。
身に瘡痍疣贅(そう・い・ゆう・ぜい)有りて、甚だ悪むべきといえども、決去すべからず。ただ寛懐してこれに処するべきのみ。
身体に、かさや傷あと、いぼやこぶなどがあって、たいへんイヤなものだとしても、切って取り去ってしまってはよろしくない。とにかく緩やかに考えて、対処していくことが大切である。
切り取ってしまうと、体の他のところにいろんな影響が出てしまうからです。
さて、
自古人倫賢否相雑、或父子不能皆賢、或兄弟不能皆令、或夫流蕩、或妻悍暴、少有一家之中無此患者、雖聖賢亦無如之何。
古えより人倫の賢否は相雑わり、或いは父子みな賢なる能わず、或いは兄弟みな令なる能わず、或いは夫流蕩し、或いは妻悍暴なる、一家の中にこの患い無き者有ること少なく、聖賢と雖もまたこれを如何ともする無し。
古代以来、人間社会には賢者とそうでないやつが互いに交わってできている。父と子がどちらも賢者であることは難しいし、兄と弟がどちらも大人しく優秀であることも難しい。あるいは夫が遊び人だったり、あるいは女房が気が強くて怒りまくるとか、家中のこのような悩み事の無い人は、ほとんどいないだろう。そして、そのような状態は、聖人賢者といえども解決できなかったことなのである。
そこで、上の「かさ・傷あと・いぼ・こぶ」のことを心に思い浮かべてほしい。
能知此理、則胸中泰然矣。
よくこの理を知れば、すなわち胸中泰然たり。
この理屈がわかれば、家庭内でイヤなことがあっても、心の中はゆったりとしていられるであろう。
古人所以謂父子、兄弟、夫婦之間、人所難言者如此。
古人の、父子・兄弟・夫婦の間を謂いて、人の謂い難きところとする所以はかくの如し。
むかしの人が、父と子、兄と弟、夫と妻の間のことを、他人はなかなかなんとも言えない、と言った理由はこんなところであろう。
いぼだったのだ。
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宋・袁梧坡「袁氏世範」巻一「睦親篇」より。聖人賢者を含め、みんな苦しんでるんだから自分だけ楽になれるはずはないだろう――という意味にも取れなくはないのですが、「裏金」とか「きわどいダンサー」とか「脱税」とかどこかで踏ん切りつけて取り除かないと、まわりのひとからどんどん見放されてしまう・・・かも。知らんけど。