4月26日 社会主義文学であるかも

非凡人也(凡人に非ざるなり)(「後漢書」)

ブス(←わたしが言うのではなくて「正史」の一つ「後漢書」

状肥醜而黒。

と書いてあるのですから「ルッキズム」との批判はそちらに言ってください)で、しかも力の強い女房をもらった扶風の梁鴻(4月8日)はその後どうなったでしょうか。

おれは色白だるまー。

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心配してもしようがないのですが、

居有頃。

やがて、女房の方から

今為黙黙、無乃欲低頭、就之乎。

と言い出したので、梁は

諾。

と言いまして、二人で覇陵山中に入り、耕作と織布を業として自ら楽しんでいた。

やがて、函谷関を越えて東行し、都・洛陽を過ぎて、「五噫之歌」(五つの「ああ」の歌)を作った。

陟彼北芒兮、噫。  彼の北芒に陟(のぼ)れり。ああ。

顧覧帝京兮、噫。  顧みて帝京を覧たり。ああ。

宮室崔嵬兮、噫。  宮室は崔嵬(さいかい)せり。ああ。

人之劬労兮、噫。  人の劬労せる。ああ。

遼遼未央兮、噫。  遼遼としていまだ央(なか)ばならざる。ああ。

粛宗皇帝(章帝。在位75~88)はこの歌を聞いて、

非之、求鴻不得。

その後、彼は、姓を運期、名を燿、字を侯光と変えて、

与妻子居斉魯之間。

何時の間にか子どもが出来ていました。

それからさらに江南の呉に行き、

依大家皐伯通、居廡下、為人賃舂。毎帰、妻為具食、不敢於鴻前仰視、挙案斉眉。

これを大家の皐伯通が見ていた。

彼傭能使其妻敬之如此、非凡人也。

そこで、

方舎之於家。

家の子郎党ではなく、対等の立場で付き合うことにしたのである。

梁鴻はやがて病の床につくと、江南の地に葬ってほしい、郷里に墓を作らないように、と遺言して亡くなった。

伯通等為求葬地於呉要離冢傍。

石要離というひとは「史記」や「春秋」に出てくる人ではないのですが、呉王闔閭の依頼を受けて、そのライバルであった公子慶忌を暗殺し、事成るやその場で自殺した、という伝説(「呉楚春秋」など)の人物です。

仲間たちは言った、

要離烈士、而伯通清高、可令相近。

と。

葬儀が終わると、

妻子帰扶風。

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「後漢書」巻八十三・逸民列伝より。帰って行ったあと女房がどうなったか気になりますね。なにしろ石臼を持ち上げるという女だ。何かでかいことをしたに違いない・・・とは思いませんか。

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