非凡人也(凡人に非ざるなり)(「後漢書」)
ブス(←わたしが言うのではなくて「正史」の一つ「後漢書」に
状肥醜而黒。
状は肥醜にして黒し。
その容貌はデブでブスで色黒であった。
と書いてあるのですから「ルッキズム」との批判はそちらに言ってください)で、しかも力の強い女房をもらった扶風の梁鴻(4月8日)はその後どうなったでしょうか。
おれは色白だるまー。
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心配してもしようがないのですが、
居有頃。
居るに頃有り。
しばらくはじっとしていたのですが。
やがて、女房の方から
今為黙黙、無乃欲低頭、就之乎。
今黙々たりて、すなわち低頭してこれに就くを欲する無かれ。
「黙って頭を下げてひとさまにお仕えしようなどと、思ってるんじゃないでしょうね」
と言い出したので、梁は
諾。
諾(うべな)えり。
「わかった」
と言いまして、二人で覇陵山中に入り、耕作と織布を業として自ら楽しんでいた。
やがて、函谷関を越えて東行し、都・洛陽を過ぎて、「五噫之歌」(五つの「ああ」の歌)を作った。
陟彼北芒兮、噫。 彼の北芒に陟(のぼ)れり。ああ。
顧覧帝京兮、噫。 顧みて帝京を覧たり。ああ。
宮室崔嵬兮、噫。 宮室は崔嵬(さいかい)せり。ああ。
人之劬労兮、噫。 人の劬労せる。ああ。
遼遼未央兮、噫。 遼遼としていまだ央(なか)ばならざる。ああ。
あの(洛陽の)北の邙山に登ってみた。ああ!
頂から振り返ってみると帝都・洛陽が見えた。ああ!
宮殿のなんと高く大きいさまよ。ああ!
人民を働かせているのだ。ああ!
まだまだ完成ははるか、半分もできていないのだ。ああ!
粛宗皇帝(章帝。在位75~88)はこの歌を聞いて、
非之、求鴻不得。
これを非として、鴻を求むれども得ず。
「それはないじゃろう」と議論しようとして、梁鴻の身柄を求めたが発見できなかった。
その後、彼は、姓を運期、名を燿、字を侯光と変えて、
与妻子居斉魯之間。
妻子とともに斉魯の間に居る。
女房子どもと一緒に、いにしえの斉と魯の間、今の山東省あたりに居住していた。
何時の間にか子どもが出来ていました。
それからさらに江南の呉に行き、
依大家皐伯通、居廡下、為人賃舂。毎帰、妻為具食、不敢於鴻前仰視、挙案斉眉。
大家・皐伯通に依り、廡下に居りて人のために賃舂す。帰るごとに、妻ために食を具え、敢えて鴻の前にて仰視せず、案を挙ぐること眉に斉(ひと)し。
大地主の皐伯通というひとの家の子となって、その大屋根の下に住まわせてもらい、雇われて米つきをする労働者となった。シゴトを終えて部屋に帰ると、女房が彼のために飯を作って、それを食べさせるときには梁鴻の方を仰ぎ見ることもせず、飯を盛ったお膳を自分の眉毛と同じ高さにまで持ち上げて、差し上げるのであった。
これを大家の皐伯通が見ていた。
彼傭能使其妻敬之如此、非凡人也。
彼(か)の傭、よくその妻をしてこれを敬わしむることかくの如し、凡人には非ざるなり。
あの賃金労働者は、自分の女房に自分をあんなに尊敬させているのだ。あれはただものではないぞ。
そこで、
方舎之於家。
まさにこれを家に舎せしむ。
大屋根の下ではなく、自分たちの家を与えてそこに住まわせた。
家の子郎党ではなく、対等の立場で付き合うことにしたのである。
梁鴻はやがて病の床につくと、江南の地に葬ってほしい、郷里に墓を作らないように、と遺言して亡くなった。
伯通等為求葬地於呉要離冢傍。
伯通ら、ために葬地を呉の要離の冢の傍らに求む。
大家の皐伯通らは、彼のために墓地を、春秋時代の呉のひと石要離の古墳の近くに求めてやった。
石要離というひとは「史記」や「春秋」に出てくる人ではないのですが、呉王闔閭の依頼を受けて、そのライバルであった公子慶忌を暗殺し、事成るやその場で自殺した、という伝説(「呉楚春秋」など)の人物です。
仲間たちは言った、
要離烈士、而伯通清高、可令相近。
要離は烈士なり、而して伯通は清高、相近からしめん。
石要離は伝説の壮烈な男じゃ。そして、我らが友・梁伯通は清廉にして高雅な人物。この二人を近くに眠らせてやろうではないか」
と。
葬儀が終わると、
妻子帰扶風。
妻子、扶風に帰る。
女房と、できていた子どもは、扶風の郷里に帰って行った。
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「後漢書」巻八十三・逸民列伝より。帰って行ったあと女房がどうなったか気になりますね。なにしろ石臼を持ち上げるという女だ。何かでかいことをしたに違いない・・・とは思いませんか。