丹青在山(丹青山に在り)(「管子」)
人びとはなんでも知っているみたいです。わしはあんまり知りませんが。

テレビが何でも決めてくれるのでは? テレビ持ってないけど。
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春秋の時代、覇者・斉の桓公の宰相、管仲が言った、
丹青在山、民知而取之。美珠在淵、民知而取之。
丹青山に在れば、民知りてこれを取る。美珠淵に在れば、民知りてこれを取る。
「丹青」は水銀の粉末である「丹砂」と青系統の土「青雘」(せいわく)のこと。いずれも染色に用いる。
貴重な画材の丹砂や青雘が山に在れば、いつか人々が知って採取する。美しい珠が水中に在れば、いつか人々が知って採取する。
是以我有過為、而民毋過命。民之観也察矣、不可遁逃以為不善。
是を以て、我に過為有るも、民に過命毋(な)し。民の観や察なり、遁逃して以て不善を為すべからず。
そのよう(に人びとは、いつかは何でも知るの)であるから、為政者には誤った行動がありうるが、人々には誤った評価は無いのである。人々の評価は、すべてお見通しなのである。見えないところに逃げ出して、そこで悪事をする、ということはできないのだ。
このことをよく弁えねばなりません。
故我有善、則立誉我。我有過、則立毀我。当民之毀誉也、則莫帰問於家矣。
故に我に善有れば、すなわち立ちどころに我を誉む。我に過ち有れば、則ち立ちどころに我を毀(こぼ)つ。民の毀と誉に当たるや、家に帰りて問う莫きなり。
以上からわかるように、為政者にいいところが有れば、(人々は)すぐに為政者を称賛する。為政者に過ちがあれば、すぐに為政者を棄てるだろう。人々が称賛しあるいは棄てるとき、(それは厳然として結果を導くものであり、)そうされた為政者は、家に帰って左右の者にそのことの当否を問うて(人々の判断がおかしい、と言おうとして)も意味がない。
人びと、とはなんと恐ろしいものでありましょうか。
故先王畏民。操名従人、無不彊也。操名去人、無不弱也。雖有天子諸侯、民皆操名而去之、則捐其地而走矣。
故に、先王は民を畏る。名を操(と)りて人を従う、彊ならざる無きなり。名を操りて人を去る、弱ならざる無きなり。天子諸侯有りと雖も、民みな名を操りてこれを去れば、その地を捐(す)てて走るなり。
以上からわかるように、古代の王者たちは人びとをたいへん畏れたのである。(人々が)名声を与えて為政者を思うように扱うときは、為政者はたいへん強化される。逆に、低い評価をして為政者に従おうとしないなら、為政者はたいへん弱体化するのである。たとえ、天子や諸侯として在位したとしても、人々がその評価を下げて従おうとしない時は、彼らはその領土を放り出して亡命するしかないのであります。
と。「川下」の感覚を重視することが必要なようです。
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「管子」小称篇より。家に帰って親しい者に「おれ間違ってないよね」と問うこともできない、とは、何という怖ろしい判断でしょうか。わしらにもこんな力があるのであろうか。ちょっと試してみようかな・・・と言ってアメリカのわしらはトランプさんを選んだのでしょう。やばいかも。
評言:「肝冷庵」も小論文の一種と考えれば、一定の文明の中では「評点不可能」です。実はワールドワイドなのでは。