亦是悠然(またこれ悠然たり)(「娑羅館清言」)
娑羅館(しゃらかん)は明の文人・屠赤水の号です。

資本主義社会だからと言って競争ばかりしていればいいというものではない。時には戸を閉めてお香を焚こう。
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その清言集である「娑羅館清言」には言う、
茶熟香清。有客到門可喜。
茶熟して香り清し。客の門に到るあれば喜ぶべし。
お茶が十分蒸されていいにおいがしている。そんな時、門のところにお客が来たら、喜ばしいことではないか。
鳥啼花落。無人亦是悠然。
鳥啼き花落ちぬ。人無きもまたこれ悠然たり。
鳥が鳴いて花も落ちてしまった。そんな時は、誰も来なくても、またゆったりとした気分ではないか。
いいですね。
陳眉公の「岩棲幽事」にはこんなのがある。
品茶一人得神、二人得趣、三人得味。七八人是名施茶。
品茶、一人神を得、二人趣を得、三人味を得。七八人はこれ施茶と名づく。
お茶を煮て、品評する。一人ですれば、茶の神秘がわかる。二人ですれば、趣きある時間になる。三人ですれば、お茶が美味い。七八人ですれば、それは「お茶を差し上げる」という。
これもいいですね。
掩戸焚香、清福已具。如無福者、定生他想。更有福者、輔以読書。
戸を掩いて香を焚けば、清福すでに具わる。もし福無き者ならば、定めて他想を生ず。更に福有る者ならば、輔(たす)くるに読書を以てす。
戸を閉めて、お香を焚くと、もうそれだけで十分に清々しい幸福がある。それ以上、幸福の来ない者は、きっと他のことを考えるだろう。それ以上に幸福の来る者は、それに加えて読書する。
わたくしのようなノルマとして読書に苦しんでいる人間とは違って、読書が喜びになるとは。
ハンカチ持ってないからズボンで手を拭くような人を困らせるために停止されたのだと思ってました。今も動かないままで、原発とよく似ている?